「ふるさと平井」シリーズ№17を掲載

投稿日:2021年2月16日

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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№ 17 p.120-130)

       第4章 明治維新後の平井のあゆみ(昭和初期まで)

   6.教 育

操南尋常高等小学校沿革史

小学校教育の変遷
学制発布 明治5年(1872)8月、教育の重要性を痛感した明治政府により、学制が発布された。日本の教育近代化の始まりである。学制には学区・学校・生徒や試業・学費など213章にわたって述べてある。最も重要なことは「邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめんことを期し」と教育の義務制を規定していることである。
岡山県では学制実施のため、明治5年10月各市町村に次のような布達を出した。それには「今般文部省から出された学制の御趣意に基いて、区区に小学を設置するから、士族平民共男女8才よりその区区小学に入学させなさい。」という意味のことが書かれている。
学制の制定とともに各地で小学校の開設努力が始められた。多くは取りあえず今まであった寺小屋や私塾をそのままか、または統合してそこに小学校の看板を掲げた。明治6年1月文部省は各府県に対し設立すべき小学校の校数などについて上申させた。それによると岡山県は3中学区とし、571小学区に分けることに決めている。この場合1小学区の人口は7・800から4・500人を目途としたのである。平井地区は岡山県第1中学区第6大区4番小区・18番小学に当たり次の記録がある。
近村では、藤崎村 岡田甚吉郎宅、江崎村 貝原柳三郎納屋及び斎藤卯七郎納屋、倉田村 渡辺文五郎納屋などの記録はあるが、いずれも校名や生徒数は不明である。
その後操南小学校に残る記録には「明治6年2月 春湊小学校を妙広寺内に設け平井村一円を学区とす。(生徒数110名)同年3月 操陽小学校を湊村に設け、湊村一円を学区とす。(生徒数60名)」と記されている。この操陽小学校は、上湊正義(湊池の内)が私財を投じ、上道郡南部地方に率先してつくったと言われる。氏は学校管理者となり、教師・児童の湯茶・薪炭に至るまでも自家のものを給したのである。
このように形式的には近代学校として名目を代えても、実際の教育の様子については、まだ寺小屋当時とあまり変わっていないというのが実態のようである。また明治17年3月教育令が改正され、小学校等科規定が次の3種類になった。初等科3か年・中等科3か年・高等科2か年である。このうち初等科3か年を必ず修学しなければならないと規定していた。
小学校令公布とその後のあゆみ ○明治 19年 4月 小学校令が公布され尋常科4か年・高等科4か年の修業年限が示された。しかし場合によっては、3年間の小学簡易科を設けて尋常小学校に代えることが認められたので、義務教育年限は最低3年となったことになる。義務教育年限4年制が確立されたのは明治33年のことである。

ふるさと平井の大多数の方々が学んだ操南小学校の沿革史には、次のように記録されている。操南小学校のあゆみと共に、年代を追って小学校教育の変遷をたどってみる。
○明治 20年 4月1日 尋常操南小学校を開き
 假本教場を平井村妙広寺内に設置   児童  110名
 第一分教場を平井村湊に、      児童   50名
 第二分教場を富山村円山曹源寺内に、 円山・山崎の児童     70名
 第三分教場を操陽村倉益に、     倉田・倉富・倉益の児童  90名
 第四分教場を三蟠村藤崎に、     江崎・江並・藤崎の児童 100名
 第五分教場を沖田村沖元に、     沖元・桑野の児童     92名

小学校国語読本(昭和8年)

○明治 20年 10月 三蟠村藤崎(現在地)に校舎を新築(9教室)し、各分教場の児童を全部合併した。児童数(男 389・女 172)合計561名で、これを4学級に編成した。
○明治25年11月 岡山県は訓令を出し小学校の統一をはかった。これに従って尋常操南小学校の名称は明治26年から操南尋常小学校と改正された。
小学校令は明治19年に定められてから、教育勅語が発布された明治23年、日清戦争後の明治33年と改訂され、尋常小学校を4か年に統一し、義務教育の普及を期した。この頃から2か年の高等小学校を4か年の尋常小学校に併置して義務教育6年制を志向し、両者に一貫性を持たせようとした。
○明治32年 4月 操南尋常高等小学校と改称(高等科併設)
明治19年の小学校令の制定で、上道郡内では全村組合で設立された上道高等小学校が可知村大多羅に1校あったが、小学校令の改正で併設が認められることになり、操南小学校にも尋常科4年と高等科2年の併設が行われた。
○明治32年 小学校令改正で義務教育機関の授業料は徴収しないことが定められた。
○明治 40年 3月 小学校令の第3次改正、従来の尋常小学校4年を6年に改め、義務教育年限を6か年に延長した。これは高等科の2か年を尋常科の4年に加え、その上に高等小学校を2か年、土地によっては3か年として併置したのである。
現行の小学校6年制はこの時に確立し、近代的小学校制度の基礎ができたわけである。

○明治41年 5月 環翠尋常小学校と三勲(みさお)尋常小学校が合併し、旭東尋常小学校が花畑(現在地)に新設された。通学距離が遠かった平井元町・元上町・四軒屋の地区は操南小学校より距離が近いということで、旭東尋常小学校に通学するようになった。このことについては記録がないのではっきりしないが、恐らく岡山市と平井村で申し合せができていたのであろう。
○明治44年 4月 岡山県立師範学校が門田に移転したのにともない附属尋常高等小学校が門田(現在地)おかれたので、平井・湊地区から通学する児童も多くなった。戦後網浜経由の定期バスが開通するまでは、四軒屋から火葬場への峠道が多くの児童生徒の通学路だったのである。
○昭和16年 4月1日 戦時体制を強化するため国民学校令が施行され、小学校は国民学校と名称が変更された。
児童の就学率 学制発布以来、岡山県は全国に比べて就学率は大きく上回っていた。岡山市百年史(上巻)によりその状況を表記すると別表Iの通りである。この表を参考に記載したのは、平井村に隣接する岡山区と上道郡藤崎村の数字が示されているからである。この表の説明に岡山区の就学率が高いのは県都として商工業などが多いためとしているし、また農村地帯の藤崎村については岡山区に接近していたためであろうとしている。わがふるさと平井村は岡山区と藤崎村にはさまれた地域であるので、恐らく同じような傾向にあったのではなかろうか。何れにしても就学率は年々向上してきたものの、明治10年代の終り頃は岡山県では約70%弱で、義務教育とはほど遠い状況にあった。
次に男女の就学率を比べてみると、表Ⅱのように男子より女子の不就学者がかなり多いことがわかる。封建社会の風潮である男尊女卑の思想が根強く残っていたためであろう。
明治19年(1886)の小学校令公布によって義務教育制が明確化されたが、半面義務教育期間が1年延びて4年になったことと、授業料の徴収などで就学率は大幅に下がった。岡山市では明治18年の就学率75.1%明治24年には61.7%となり、18年の水準にもどったのは明治26年で、県もほぼ同じ動きをみせている。
岡山県は就学率を高めるため、郡市町村を督励した。明治33年就学児童の増加を図るように布達を出し、巡査の戸ロ調査時の修学勧誘や、毎日通学できない児童のための特別措置などを考え、万全を期した。更に郡市町村の教育会の設立や、授業料の免除措置などの施策を次々に実施した。こうした努力によって就学率は次第に向上し、上道郡では明治37年度に99%を超えた。全国的にも日露戦争前後から教育への関心は高まり、国民皆学習・義務教育が定着してきたわけである。
岡山県立成徳学校

成徳学校校舎全景

標高70m余りの米山と言われる操山の丘陵地に、岡山県立成徳学校は昭和12年岡山市三門から移設された。学校敷地面積84,000㎡にも及ぶ広大な丘は、岡南平野から児島の連山を見渡せる壮大な景観と、緑の自然に恵まれた絶好の教育環境である。学校建設に当っては、自然林の維持と開設後の計画的な植樹が行われ、常緑や落葉(らくよう)の樹々は変化に富む緑地帯を形成し、2つの池を中心に四季折りなす自然のただずまいは、成徳公園と呼びたいほど手入れが行きとどいている。この恵まれた自然環境の中に鉄筋3階建ての本館を中心に10数棟の教育的な諸施設が点在し、調和のある全体的環境療法の場となっている。
施設の目的 児童福祉法による教護院であり、岡山県が設置している児童福祉施設である。満18才未満で、家庭や学校などで問題があってうまく適応できない児童を預かり、生活・教育・治療活動を営むことにより、社会に適応できる人間に育てることが目的である。
教育の基本は「児童と同行」であり、夫婦の職員が家庭舎に住みついて、児童と暮らしを共にする中でごく自然に教育が行われている。そのようないわば疑似家庭の体験を積み重ねて人間関係が深まり、児童はかけがえのない人間として健全に育成されて、社会に復帰することをねらう児童福祉施設である。
明治維新以後の教護院の変遷  感化法が制定される以前の非行少年に対する法規は、明治5年に発布された監獄則であった。非行少年はその法によって監獄の中に懲治監(ちょうじかん)が設けられて収容されていた。後に懲治場(ちょうじば)と改称されているが、20才未満の犯罪者が対象となっていた。懲治という文字のように教育とか福祉的な発想ではなく、刑罰的な考えに基づいた処遇がなされていた。当時は激変の時代であり、産業の急激な発展による都市への人口の流入、スラム街の発生、低賃金、少年の労働などにより、多く非行少年が続出して社会問題となっている。
感化法の制定公布は明治33年3月であるが、制定前の議会に対しての政府側の説明のなかに「刑法によって懲治処分になった幼年犯罪者は、普通の監獄内に収容し、懲治場に入れて教育をするがその効果なく、かえって悪習を覚える状況であるので適当な感化教育を行う場所がいる。」と記されている。
わが国の教護事業の先駆者で、北海道家庭学校の前身である家庭学校を東京の巣鴨に明治32年11月に創設した留岡幸助は「罪をつぐなわすために罰しても効果があがらず、懲らしめることによって逆に新しい罪が生まれる。」と言っている。そのように考える人々が出はじめた折しも、欧米諸国の少年犯罪者を感化するという思想が伝わり、少年犯罪者の処遇のあり方が論議されてきた。

わが国で最初の感化院は明治17年8月に、大阪の少年感化の母といわれた池上雪枝によって創立された「池上感化院」である。続いて東京・千葉にも開設され、岡山感化院が明治21年8月岡山市小原町光清寺内に開設された。初代院長千輪性海は感化教育のさきがけとして職業指導に力を注ぐ。これが岡山県立成徳学校の創立である。その後次のような幾多の歴史的変遷を経て今日に至ったわけである。
○明治31年 7月 初代岡山市長花房端連氏が瓦町蔭涼寺に社団法人備作恵済会岡山感化院を設立し、光清寺の岡山感化院を併合した。
○明治41年 刑法改正により「14才に満ざる者の行為は之を罰せず」という1条が加えられた。また懲治場は廃止されて、該当少年は感化院等に収容し保護・教育を行うことになる。
○明治42年 4月 感化院法改正により、岡山県代用感化院に指定される。
○明治42年11月 岡山県御津郡石井村(現岡山市三門)に新築移転、備作恵済会三門学園と改称する。
○昭和 3年 4月 県営に移管、岡山県立三門学園と改称する。
○昭和 9年10月 少年教護法が施行され、少年教護院岡山県成徳学校と改称する。
○昭和12年 6月 現在地、岡山市平井米山に全校移転する。
地元地区はこの移転を歓迎したようである。地区民は鋸や斧を手にして手弁当で山林の伐採等の奉仕作業を行っている。
その後米山の学校田で米作りが行なわれた昭和30年ごろまで、地元の農家は脱穀機や籾摺(もみすり)機などを丘まで引き上げて食糧増産に協力していた。
○昭和21年12月 戦災孤児、浮浪児収容の岡山保護児童収容所の併設。(400名余) この頃から「少年の丘」と愛称されるようになる。
○昭和23年 1月 児童福祉法が施行され、児童福祉法による教護院となる。
○昭和39年 4月 岡山県立成徳学校と改称する。
○昭和48年12月 岡山県は学校を全面移転して改築計画を立てていたが、学校関係者の要望により現在地で改築することとなり、改築が始まる。
○昭和57年 3月 寮舎6棟、本館、プール、体育館。附属建物の改築終了。
○平成 元年 1月 百周年記念事業として武道場が完成、3月に創立百周年記念式典を行う。
以上成徳学校の沿革であるが、この100年の歴史を支えてきたものは、限りなく家庭生活に近づけられた小舎制による生活療法であろう。家庭舎の中で寮長夫婦がわが子も育てながら、入所児童と一体となって生活を共にしながら教育しているのである。1寮の定員は15人、寮長夫婦が責任者となって子供たちの世話をしているが、夫婦は入所児童の親代わりである。学校が休日でも、子供たちがいる限り寮長夫婦に休日はない、365日が仕事ということになる。しかも寝食を共にするのだから、毎日が24時間勤務でもある。しかし先生方は、親ならだれしもわが子と暮らすことを仕事と思わないように、入所児童をわが子と思うので、24時間勤務していると思ったことがないと言う。寮を預かる先生夫婦に共通している考えである。
感化法から、少年教護法、そして児童福祉法に基づく教護院と改称されて現在に至った成徳学校が、職員の労務管理の問題など、山積された諸問題を乗り越え、魅力ある教護院として充実発展することを、平井地区の人々は願っている。

(つづく)

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