「ふるさと平井」シリーズ№16を掲載

投稿日:2021年2月1日

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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№ 16 p.116-120)

       第4章 明治維新後の平井のあゆみ(昭和初期まで)

   5.農会 (農協)と新嘗祭(にいなめさい)の献穀

農会(最協)のあゆみ
ご一新後、作付制限の廃止(明治4年)、土地売買の解禁・地券発行(明治5年)などが行われ、封建的規制は撤廃され、更に明治6年の地租改正により新しい土地制度が確立した。しかし明治20年代なかば頃までは藩幕体制下の農業の実態を色濃く残しており、農民は生産性の低い農業と労働に苦しんできた。
政府は、明治33年農業改良政策推進のため農会法を実施、岡山県ではそれより早い明治28年、県令で農会設置規定を定め、各行政単位での農会設立を奨励した。上道郡農会は明治30年に設立、明治35年法令に基づく農会として認可され、以後農業改良の指導機関として活動をはじめることになる。平井村農会もその傘下の組織として、明治後期から大正・昭和初期にかけて農業振興のため、近隣農村と連携を深めながら主体的な役割を果たしてきた。具体的には、模範農場の設定、共同苗代組合の設立をはじめ、病害虫駆除の研究、稲作などの品種改良、耕地整理事業、生産性向上のための農業用機械の導入などを、技術員の指導のもとに積極的に進めた。また農家経営の健全な育成のため産業組合を組織し、肥料・農機具の共同購入や共同耕作も実施し、更に副業的な生産物の奨励にも力を入れた。平井地区の農業の主体は米麦であるが、岡山市域に隣接する地域であるので、古くから市域への蔬(そ)菜や鶏卵の供給、また竹・わら・い草の加工品の生産などが副業として行われてきた。漁村としての古い伝統を持つ村であるので、漁業も重要な副業の一つとして農家経済を支えてきた。こうして農業生産物の改善・増収と副業への積極的な取り組みにより、農家の経済的基礎は徐々に改良されてきた。昭和6年(1931)岡山市に編入後は岡山市農会の一員として昭和初期の不況時代を経て、戦時体制下に組み込まれていく。農業生産及び流通に関する国家統制のもとで食糧増産の国策に添い、労力不足の中で主要食糧の生産に重点的に取り組んできた。米穀配給統制法(昭和14年)、食糧管理法(昭和14年)などが相次いで公布され、また昭和14年には小作料統制令が出され、小作料負担軽減措置がとられるなど、あわただしい推移の中で終戦を迎える。
戦後における農業の変転は目まぐるしく、農地改革と並んで諸制度の改変が相次いで行われた。昭和22年の農業協同組合法成立により、従来の農業会は廃止され、翌23年頃から県下市町村で、農民が自主的に組織する農業協同組合の設立が始まった。
一行政区一農協という原則から岡山市農協では、昭和20年代後半の近隣町村編入を機に、大同合併の気運が高まり、昭和36年7月1日、岡山市域14農協と2地区が合併、難波 徹新会長(平井)のもとに、県下最大の新岡山市農業協同組合として発足した。
平井地区は岡山支所管内にあったが、昭和51年、平井出張所ができ、更に組合員の強い要望により、昭和57年JA平井支所に昇格、新屋舎をかまえて、開発がすすむ地域住民と186戸の組合員のサービスに努力している。
新嘗祭(にいなめさい)・献穀
毎年11月23日は勤労感謝の日、国民の祝日である。終戦までは新嘗祭と称し、天皇が今年新しく穫れた穀物を天神地祇(ぎ)に供え、また天皇ご自身がこれを召し上がる祭儀を行う日である。古くは陰暦11月の中の卯(う)の日に行われていたという。
この新嘗祭に供御する新穀は、江戸期までは京都・宇治の御料地で収穫したものを用いていた。その後変遷はあったが、明治以降は地方有志農民より献納したものを使用するようになった。
昭和18年(1943)の献納について、県では献穀郡市を抽せんにより岡山市と決定、更に岡山市農会において従来の仕来たりに従い精米・精粟(ぞく)献納者各2名を決定した。そのうち粟の奉耕者の1人に平井四軒屋の岡本氏が選ばれた。
 精粟奉耕者 岡本熊夫     岡山市平井556
 〃耕作地  畑2反5畝11歩 岡山市平井スリバチ620~621(注)
更に実際に農耕や種蒔き・田植えに従事する田士・早乙女の選任が行われた。これは市内各農事実行組合長や町内会長・国民学校長・青年学校長から内申された候補者について、身体検査・人物選考を行い、厳選して各20名を決めるわけで、平井湊地区からは次の6名が選任されている。
 田 士  大谷耕一(平井) 岡本久雄(平井)
 早乙女  坪田幸子(平井) 大谷唯子(平井) 妹尾富貴子(湊) 浜倉千枝(湊)
かくして古式にのっとり耕作地の整地から収穫、宮内省への献納までが関係者の奉仕によって行われている。平井に関係する粟圃(ぞくほ 粟の畑)についてその概略を述べる。
〇 2月11日 祈願祭並に田士・早乙女の選任式
〇 4月 3日 粟圃卜地祭並に地鎮祭
〇 5月 1日 粟圃整地
      5月 9日 粟播祭
〇 9月 8日 粟抜穂祭
  9月22日 収穫(穂を抜き取り乾燥・脱穀・調整)
 10月13日~21日 精粟・粒選・研磨
〇10月23日 県庁納入(白羽二重の袋に精粟5合を入れ献奉)
 10月25日 宮内省へ献納
 11月23日 新嘗祭
 11月25日 宮内省より奉耕者に対し献穀御嘉納の御沙汰書下賜

粟播祭奉祝踊り(土手町 大谷章氏提供)

なお〇印の付いた日は祭式があり、奉耕者・田士・早乙女をはじめ知事・県・市農会長、その他関係者一同が参列し厳粛に行われた。また献納残余の米・粟は広く市内の農家に頒与(はんよ)された。

昭和18年といえば第2次世界大戦下、天皇は現人神(あらひとがみ)であらせられ、皇室の尊厳はおかすべからざる時代である。新穀献納の栄に浴した、岡本氏並びに田士・早乙女の方々の栄誉は勿論であるが、平井地区の人々は、すべて郷土の誇りとしてこの行事を奉賛したことと思われる。あれからすでに半世紀、時は移り民主日本は人間天皇を国の象徴として生れ変わったが、純粋に奉公の誠を尽くした、往時の農村平井の姿が偲ばれる行事である。
(注)スリバチとは古い小字名、620、621番地は現在の平井小学校管理棟付近である。

(つづく)

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