「ふるさと平井」シリーズ№15を掲載

投稿日:2021年1月16日

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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№ 15 p.107-116)

       第4章 明治維新後の平井のあゆみ(昭和初期まで)

   4.軽便鉄道や渡し舟など

ご一新後、政府は交通上の封建的な諸制度(関所・伝馬所など)を廃止し、中央集権国家の建設に必要な、交通・通信制度の確立に積極的に取り組んだ。道路の整備・改修にともない、陸上交通の主役は徒歩から馬車・荷車・人力車など各種車輛に変わってきた。更に時代が移るに従い、鉄道や自動車・自転車などが急速に普及し、より早く、より効率的な交通手段が発達してくる。また海上交通についても蒸気船による遠距離輸送が定着し、地理的な条件に恵まれた港は活況を呈していた。
ふるさと平井の交通については、東山を越える県道岡山-西大寺線や、三蟠-岡山線など主要な道路が通り、また旭川という岡山市街地に通じる主要河川に接していることもあって、早くからさまざまな変遷を見てきた。西大寺に通じる湊大池東の道や、旭川旧堤防道を人力車や馬車・荷車が行きかい賑わった時代もあった。明治37年(1904)岡山の山羽虎夫によって製作された国産第1号の蒸気自動車の試運転が、岡山・三蟠間で行われたという。平井の土手を県内では最初に自動車が走ったわけで、これを目撃した往時の人達の驚きと期待が察せられる。
こうした交通の変遷の中で、特に短命に終わった軽便鉄道の盛衰とそれに続くバス交通、また忘れ去られようとしている旭川西岸との渡し舟について書きとめておく。
三蟠軽便鉄道
開通以前の状況と計画事情 旭川が度重なる洪水で運ばれた土砂で埋まり、汽船の運航が困難であり、また宇野線が開通していなかった明治期、三蟠港は岡山の玄関として栄えていた。特に明治36年、三蟠と四国高松間に国営連絡船が就航するに及び最盛期を迎え、旅館・飲食店・日用雑貨店などが軒を並べ港町として賑わっていた。しかし明治43年6月字野線が開通し宇野港が開港するや、岡山の玄関としての座は宇野に移り、人や物資の出入りは少なくなり、港は次第に衰退してきた。大正初年(1912)には尼が崎汽船の定期便が就航していたが、往時の賑わいを取り戻すことはできなかった。

三蟠軽便鉄道(ガス会社付近)

こうした状況の中で、港の繁栄を取り戻すために計画されたのが三蟠軽便鉄道である。地元の三蟠村を中心に、操陽村・平井村・岡山市などの52人の発起人によって申請された。当時は全国的にも軽便鉄道ブームで、岡山県下に計画されたものは30余社に及ぶが、殆ど免許執行が却下になっており、許可開業にこぎつけたものは、西大寺・片上・三蟠など6社だけであった。申請に当たっての県知事の進達(副申)には、
「本線路は短距離といえども三蟠港は岡山の咽喉にして、船舶常に碇舶し、該港と岡山市における貨物の運輸頻繁なるも、旭川は常に水浅く交通意の如くならざるをもって今回軽便敷設の計画せしものにして、本線敷設の暁は海陸連絡し運輸交通の便一層迅速となり、有益なる事業と認める」と記している。
会社創設と路線・駅 大正2年(1913)10月軽便鉄道は認可され、翌3年2月、三蟠軽便鉄道株式会社を創設する。平井村の妹尾文七郎村長は取締役として就任している。続いて同年12月工事に着工、翌大正4年8月桜橋・三蟠間が開通し、8月12日高島において盛大に開通式が挙行された。かくして営業が開始され、平井地区にとっては従来のような岡山・三蟠間の中間休憩地としての意味は薄れてきたが、幾つかの駅ができ、岡山などへの便利な乗物として利用した人も多かった。更に、大正12年桜橋までの路線を国清寺まで延長し、市内電車と連絡するに及んで一層便利になった。なおこの年社名を三蟠軽便鉄道株式会社から三蟠鉄道株式会社に変更している。
次に路線・駅について簡単にふれると、大正4年の開通時は三蟠・桜橋間約5.1kmを蒸気機関 車に引かれた客車2輛・貨車4輛の混合列車が1日11往復走っていた。三蟠駅・桜橋駅の間に浜中・平井・上屋敷・湊の停車場を設け、約30分の所要時間で輸送を続ける。今の平井地区内の停車場は湊が元町の西の山裾のあたり、上屋敷は上平井県道岡山-玉野線の押しボタン信号を南へ入ったところ、平井は北川公会堂北の道を東へつき当たった辺りである。大正12年、国清寺まで1.12kmを延長、桜橋駅を廃止し国清寺駅を作り、湊・国清寺間に網浜停車場を設け乗客の便を計った。また延長を期に平井・上屋敷の駅名をそれぞれ下平井・上平井に変更した。ガス会社への石炭輸送のため湊・網浜間に引込線を残していた。なお延長期に新しくガソリンカーを2輛入線させている。路線や駅の位置については現在残っている道床跡などから推考して地図にまとめて記載する。
運行当時の状況 最初の計画では貨物収入が旅客収入より多く見積られていたが、実際に運行を開始してみると、全収入の80~90%が旅客収入で、花畑の鐘紡岡山工場などへ通勤する大勢の人達で支えられていた。また貨物輸送は三蟠に陸揚げされた石炭をガス会社まで運ぶことが主なもので、他に魚介類や農産物も若干扱っていたという。当時の様子を雑誌「鉄道フアン」(新町 堀川利栄氏提供)に安保彰夫氏が “幻の三蟠鉄道聞き書き” と題して元機関士の話を掲載しておられるので要約して紹介しておく。
「ガス会社の石炭を若松から三蟠港に持ってきて、あそこに揚げて貯炭し、それを軽便で運ぶ。桜橋が駅の頃は、貨車をバックして石炭をガス会社へ入れていたが、国清寺に駅が移ってからは桜橋駅が廃止になり、引込線だけが駅と駅の中間に残った。三蟠から来て引込線の手前の駅のないところで一度止め、客車だけを置いて貨車だけをバックでガス会社へ押し込んでいた。また戻ってきて客車を国清寺駅まで運んでいた。だからお客さんは約10分ぐらい止めておかれるが、昔のことだから何も言わずに待っていた。当時は客車は4輛で貨車は8輛あった。客車のうち2輛は中を仕切って6名分ほどを2等にし、クッションのあるシートだった。開業の頃は2等にも乗る人があったかもしれないが、あとは乗る人もなく、2・3等の区別もなくなった。第六高等学校のボートレースや夏の花火大会が三蟠で行われていたが、その時は岡山から客が大勢来て、客車4輛では乗り切れないので貨車に腰掛けをつけ幕を張って運行していた。また、鐘紡に通う女工さんが朝4時頃交替するので、始発から満員になるくらいで、沿線の平井あたりから乗る人が100人ぐらいあった。それが国清寺まで延びて網浜駅になり、工場までが遠くなると利用する人が減り、貨物の石炭や魚もだんだん減って大正の終わりから昭和のはじめにかけて欠損が続くようになった。」
軽便の衰退 大正のはじめ三蟠港の繁栄策として企画され、三蟠港と岡山市街を結ぶ太いパイプとして、人と物を運び続けた三蟠鉄道は、昭和初期にいたり、経営が思わしくなく廃線を余儀なくされた。その原因は、旭川の浚渫(しゅんせつ)により京橋までの船便の就航や、自動車などの陸上交通手段の急速な発達である。安い船賃で岡山市の中心部まで行けることは、利用者にとって魅力ある交通手段であり、更に昭和2年、三蟠と岡山間に乗合自動車が登場するに及んで、ますます鉄道の利用は減ってきた。会社はバス路線を買い取り、鉄道とバスの両者を走らせていたが、再建の見通しはたたず、昭和初年の大不況は、不振にあえぐ三蟠鉄道株式会社に致命的な打撃を与えた。
岡山市ではその頃都市計画事業を推進しており、国富から網浜に至る旭東線と、網浜・小原町間の2線が三蟠鉄道の路線に引っ掛かり、立退きの話が出ていた。当時の三蟠鉄道にとって、この話は鉄道廃止に踏み切るよいきっかけとなり、昭和6年5月、5万円の補償を受け立退き契約書を交わし、同年6月15日、遂に完全に廃止するに至った。

開業以来16年、平井地区を南北に走りぬけた短命な軽便鉄道であったが、今でもその軌跡が処々に見られ、古くからこの地に住む明治・大正期生まれの方の中には、利用された方も多いと思う。60数年前まで、たわわに実った黄金の稲田の中を、ピーピーと警笛を鳴らし、煙をはいてマッチ箱のような軽便鉄道が走るのどかな風景を、懐かしく想い起こされる人もいるのではなかろうか。
バスの普及 昭和2年、三蟠・小橋間で乗合自動車の営業が岡山市の人によって開始されるに及んで、三蟠鉄道株式会社はこれを買い取り、当分の間バスと軽便をともに運行していた。しかし軽便の経営が思わしくなく昭和6年に廃止し、その後三蟠乗合自動車会社を設立した。岡山市内山下栄町、今の中国銀行本店付近の電車通りに、待合所兼事務所を設けていた。バス路線は電車通りを西大寺町・京橋と通り、小橋から旭川東岸の旧堤防道を河口の三蟠までの約8kmであり、1日22回往復していた。利用する人々から「三蟠バス」とか「銀バス」と呼ばれ親しまれていた。その頃は停留所はなく、道端に立って手をあげると止まり、「そこで降ろして」と言えば停車してくれる、とてものんびりした田舎のバスだった。
また昭和10年(1935)ごろには、九蟠自動車会社が京橋の西の西大寺町近くの電車通りに待合所兼事務所を開いて営業を開始した。この会社は岡山と西大寺・九蟠を結ぶ路線で営業していて、多くの回数は東山峠越えの県道を通っていたが、南をまわる路線もあった。旭川東岸から平井・宮道と走り宮道から東へ沖元経由で九蟠へ行く線と、平井元町から倉安川に沿って東へ四軒屋・湊の池の内と通り、見付・九蟠に至る線と両方あった。しかし南廻りは回数も少なく、乗車定員も10人程の今の小型ワゴン車のような小さなバスだった。現在は舗装などで道路が少し高くまた狭くなっているので、倉安川沿いの道を当時バスが走っていたということはとても信じ難いが、昭和20年頃までは地域の人にとっては便利な乗り物であったようだ。なお東湊地区を通る岡山・西大寺間の東山峠越えのバスは、他にも西大寺鉄道系の岡山乗合自動車が走っていた。
こうして、昭和の初期から乱立・競合した自動車営業事業も、昭和8年に施行された1路線1営業主義を原則とする 「自動車交通事業法」によって整理・統合され、平井地区を走るバスの経営者も「岡山バス」から「両備バス」と移り変わり現在に至っている。

渡し舟と河川交通
渡し舟 つい30年程前までの旭川には京橋より下流に橋がなく、川の東西の交通は京橋廻りか渡し舟以外に方法がなかった。旭川史により明治30年頃の京橋以南の渡舟場をひろってみると、水門渡(岡山市内田ー網浜)、二日市渡(岡山市二日市ー網浜)、瓦師渡(岡山市二日市ー網浜)、春日渡(御野郡古鹿田村ー上道郡平井村)などの記録がある。これは岡山市付近の渡しとしての記録で、以後下流に上平井渡(浜野ー上平井)、八反地渡(洲崎ー下平井八反地)、宮道渡(洲崎ー上道郡藤崎)などができていた。

春日の渡し(昭和27年頃)
(桜橋 瀬埼銀次郎氏提供)

このうち直接平井地区と旭川西岸を結ぶものは、春日・上平井・八反地の各渡しである。春日渡しは七日市の春日神社の東と平井元町、ちょうど額が瀬のあたりを結ぶ渡舟で、早くから運行されていた。上平井の渡しは、明治41年に設立された岡山製紙工場へ勤務する人のために設けられたもので、旭川大橋が完成する昭和40年代後半まで続けられていた。また、八反地の渡しは今の旭川大橋の少し上手のあたりを往復していたようで、歴史的な平井地区と洲崎(平福新田)の関係もあり、一部の人達の重要な渡し舟として運行されていたようであるが、早い時期に廃止された。
その他河川交通 近世、用水の項で述べたように、元町から湊地区へ東西に通じる倉安川は、藩政時代から重要な河川交通水路であった。明治維新以降も物資の輸送に大切な役目を果たしてきた。特に岡山市街地への農産物や加工品の運搬に利用されていたという。
一方旭川は、土砂の堆積により水深が浅くなってはいたものの、明治時代後期には小型蒸気船が三蟠・京橋間を運航していた。しかし干潮時には航行できず、平井八反地に休航することがしばしばあったという。大正・昭和の世となり、旭川の浚渫(しゅんせつ)が行われ、一定の水深が確保されてからは、南備海運の巡航船やガス会社に向かう石炭船・その他貨物船・漁船などが終日行き交い、旭川は河川交通の動脈として機能していた。こうした状況は昭和30年代まで続き、ボンポン……という蒸気船の響きが古くから旭川河畔に住む者には懐かしく思い出される。

(つづく)

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