「ふるさと平井」シリーズ№14を掲載
投稿日:2021年1月2日
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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№ 14 p.100-107)
第4章 明治維新後の平井のあゆみ(昭和初期まで)
2.平井村・湊村の合併と岡山市への編入
明治4年7月の廃藩置県に続いて、種々の地方制度の変革が行われた。明治22年の市町村制施行までの変遷を簡単に追ってみる。
明治4年、旧岡山県は岡山城下を1〜5区に、各郡郷村を6~44区に分け、更に区内を194小区に分け、新しい行政区画としての区制を制定した。続いて明治7年全管区に16の会議所を設け、1会議所毎に1名の副区長を置いて会議所管下の事務を統括・監督させる。(右表)
ふるさと平井の属する区は、第6区4番小区で第2会議所管内であった。
明治11年、郡区町村編成法により区制を廃止、郡町村を設定、別に市街地に区を設け1区31郡とする。各郡区毎に郡区長を置き、郡区内に旧町村も行政単位として復活し、各町村に戸長を置いた。この制度は約10年間続くことになる。
平井村・湊村の合併(明治21年11月)
政府は明治21年4月市政及び町村制を公布し、翌年4月1日から施行した。岡山県では6月1日から実施し、これによって岡山市が誕生し、旧町村も合併が行われ454の新町村が成立した。政府は新町村の戸数はおよそ300~500をもって理想とし、県もこの趣旨にのっとって合併を促進した。
平井村・湊村の合併もこの時期に行われた。上道郡誌によると、
「面積0.24平方里 戸数430戸 人口2189人、北部大字湊の一部は操山の余脈をうけて、地勢やや平坦を欠ぐといえども、その他大部分は坦々たる耕地にして農よく発達す。本村は平井・湊の2大字より成る。旧時は宇治郷に属し各1村として独立せしが、明治21年12月合併し、1村となし平井村と称す。村役場は大字平井にあり、郡衙(ぐんが 郡の役所)を距たる2里24丁。」とある。
これによると平井・湊両村の合併は、岡山県の町村制施行より少し早く行われ、新平井村の施行は、明治22年6月1日である。因みにこの時期の近隣町村の合併は、操陽村(倉益・倉富・倉田の旧3村合併)は町村制実施の時、三蟠村(江崎・江並・藤崎の旧3村合併)は平井・湊両村と同じ明治21年となっている。
なお、平井村の歴代村長は吉岡惣太(明治22年7月~明治39年4月)及び、妹尾文七郎 (明治39年8月~昭和6年4月)である。
岡山市への編入(昭和6年4月1日)
大正時代、岡山市への編入合併計画に上りながら、諸般の事情で実現に至らなかった宇野・平井・福浜の3村については、何れ市域に編入されるだろうと予測され、合併への地ならしは始まっていた。更に大正末期、郡制・郡役場の廃止に伴って全国的に町村合併推進の動きが活発になり、昭和2年9月には内務次官から町村合併についての通牒(ちょう)が各県知事に発せられ、こうした状況のもとで3村編入合併は大きな波乱もなく実現することになった。
その経過を簡単に略記すると、昭和4年5月、岡山市会は御津郡大野村・今村・芳田村・福浜村・上道郡宇野村・平井村・三蟠村・操陽村の諸村は市の都市計画事業地であるため、事業推進上市域への編入が必要との意見書を知事に提出した。当時の市長は合併に反対の意向を示していたが、意見書を受け取った県は、自他共に公益上有利なることを前提とし、福浜村・平井村及び宇野村の3村に限定して調査し、市会・関係村会の議決を得て内務大臣に申請し、昭和6年3月末許可を受け、同年4月1日を期して岡山市域への編入が決定した。
また編入時の平井村の状況は次のとおりである。
面積 4.026㎢ 人口 2261人 戸数 509戸
かくして、旧平井村は岡山市平井・岡山市湊として岡山市の一翼を担って新しくスタートすることになる。なおその後、隣接町村の岡山市域への編入については調査が進められたが、結局時期尚早ということで戦前期の市域拡張はこの昭和6年の平井村などの3村合併で終わった。
3.道 路
操山の西南麓から旭川の東岸までに位置する平井・湊地区は、南部に広大な新田が開拓され、人口が増加し、種々な生産物の流通が活発になるに従って、地域内の行き来きだけでなく、より広範囲な交流が必要となり、次第に道路が発達してきた。江戸期の交通は道路による陸上交通と、海・河川・用水を利用した交通があり、これらがお互いに関連しあいながら発達した。湊地区は古くから牛窓港・西大寺・沖新田地域の岡山城下への通過地点として、また、平井地区は三蟠港と岡山を結ぶ中継地として、主要な道路が古くから開かれていた。以下われわれの故郷にかかわりのある道について藩政期から明治・大正・昭和初期までの記録を追ってみる。
藩政時代の主要道路
先ず「牛窓往来」が挙げられる。備前・備中の道路は正保4年(1647)の調査記録「備前国道筋並灘道舟路帳」によると、大・中・小と灘道の4段階に分類されている。大道は山陽道のような全国的な道路、中道は領内の城下町・陣屋町・港などを互いに結ぶ道、小道は村々を連絡する網の目のような小径、灘道は海辺を出入りに従ってたどる一本道をいう。「牛窓往来」は岡山城下から放射状に出る領内主要道路6線の1つで、藩の管理する官道、即ち、前記中道に位置づけられていた。「吉備温故」によると次のように記録されている。
牛窓港に至る6里28町(岡山の内町名明記せず)ー門田村(東照宮御宮玉井宮の下茶屋あり。これより上り坂なり)ー峠茶屋ー大池茶屋ー円山村ー倉富村(この村より堤の上を通る沖田宮まで同断)ー倉益村ー倉富村(当村共離家の茶屋所々にあり)一沖新田(四番沖田宮前より五番川内清内橋を渡り、六番、七番)ー金岡村(東大川端都会なり舟渡しにて邑久郡へ入る)ー新村ー乙子村ー神崎村ー幸田村ー邑久郷村ー下阿知村ー上阿知村ー千手村ー鹿忍村から牛窓港へ
この道は玉井宮の裏(南側)の坂道を通って東山峠道に出、湊の大池(池の内)の西側から倉田方面に向かっており、昔は東山峠や、湊の大池の南西沿いに茶屋があったという。
別に岡山城下から京橋・中橋・小橋を渡り、旭川の東・網浜地区を南にぬけ、平井五軒屋あたりから倉安川に沿って湊へ出、以下倉田・倉富を経て(右と同じ)牛窓へという説もある。東山峠越えは道が極めて急峻なため、荷物などのある場合は恐らく平坦な倉安川沿いの道を使ったものであろう。
次に文化・文政(1804~1830)頃の平井村・網浜村の絵図(71ベージ参照)から村内の道を見ると、主要な道路として旭川堤防の道と倉安川・祇園用水沿いの道が描かれている。旭川堤防の道は岡山城下から三蟠港に通じる重要な道で、当時は網浜村分では旭川沿いの道はなく、倉安川沿いの道から平井元町の辺で旭川堤に進み、上平井・下平井を抜けて川崎・八反地沿いに江崎・江並(三蟠方面)へ通じていたようで、現在の旧堤防と殆ど同じである。また、用水沿いの道は、村内又は近隣村々を結ぶ要路であったと思われる。
明治・大正期の主要道路
上道郡誌から拾ってみる。
○県道 岡山一西大寺線 2里30町
岡山一湊一富山一可知一西大寺と結ぶ道路で、現在の東山峠道の旧道で、恐らく曹源寺建立(元禄11年・1698)の頃に作られたものであろう。東山峠の坂道については、湊・門田両村の峠7〜8間が極めて険しいので近郷村より1562円20銭、備前国土木工金支払残金350円の補助により明治9年9月から12月までの3ヶ月間延べ12400余人で掘削工事を行った。碑文によると「此の工や土質堅牢にして且つ許多(あまた)の厳(がん)石あり、刻開高艱難(こくかいこうかんなん)」とあり、3か所の坂道を1丈余り切り下げている。また往時は、玉井宮の南の坂道から東山峠に出るようになっていたが、明治20年、門田の大道から直ちに弊立山の北麓を奥市に出て旧道に合するように改修された。
○県道 岡山一三蟠線 2里15町
旭川東岸堤防筋の道である。網浜分になるが、平井元町より上のあたりも倉安川と平行して堤道(横土手)ができ、現桜橋から上も行幸堤といわれる土手道ができて旭川沿いに小橋まで通じている。この道は明治18年明治天皇の岡山行幸の際、三蟠港から陸路岡山へ向かわれるということで大改修を行い、特に桜橋から上では、河川敷の民家を移転して新しく堤防道を作った。その記念碑が行幸町バス停の土手下にある。三蟠港が岡山の海の玄関口として繁栄していた頃(宇野線開通以前)までは、この道は岡山一三蟠を結ぶ主要道で通行人も多く、馬車や人力車の往来も盛んで殷賑(いんしん)を極めていた。平井は丁度中間地点に当たり、下平井土手筋の両側には商店や休憩所人力車の詰所などがあり賑わっていたという。
○郡道 西大寺ー平井役場線 2里28町
上道郡役場のある西大寺と平井村役場を結ぶ道で、西大寺から円山あたりまでは県道を通り、湊に入って倉安川沿いに四軒屋へ出、南下して平井村役場(妙広寺の南)に至っていた。
○村道については記載がないので、古い地図や古老の記憶などから、昭和のはじめ頃まで利用されていた主なものを図記しておく。なお平井の旭川堤防道から四軒屋に至る道、及び四軒屋から山越えで東山に通じる道は、且つては5尺~6尺足らずの曲がりくねった小道だったが、 昭和10年前後に改修拡幅され現在に近い道となった。
次に第1次世界大戦後の急速な自動車交通に対応するため、国は都市計画法を制定、大正12年岡山市も札幌など24都市と共にその適用を受けることとなった。その際市は近隣の宇野・平井・三蟠・福浜の各村を含めた都市計画を上申、許可を得て昭和2年から街路の整備にとりかかった。しかしこの期には旧市内主要道のみの整備で終わり平井地区までは及ばなかった。
(つづく)
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