「ふるさと平井」シリーズ№13を掲載

投稿日:2020年12月17日

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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№ 13 p.95-99)

第4章 明治維新後の平井のあゆみ(昭和初期まで)

   1.近代へのあゆみ

幕末の動向
幕藩体制は19世紀中頃(1850頃)から政治・経済等あらゆる面で行きづまり、加えて嘉永6年(1853)アメリカ極東艦隊司令長官ペリーの来航によって厳しい外交問題に直面し、太平の夢は破れ内外の情勢は一段と重大化してきた。
幕府は翌嘉永7年(1854)アメリカと日米和親条約を結び開国に踏み切ったが、これを機に尊皇攘夷論が高まり、幕府の「安政の大獄」(安政5年 1858)による尊皇志士の弾圧や、五か国通商条約の締結(安政5年)などにより、ますます尊皇運動は激化するに至った。即ち、水戸藩士等による大老井伊直弼暗殺の「桜田門外の変」(万延元年 1860)や長州藩の外国船砲撃事件(文久3年 1863)などが続発し、政局は激動期を迎える。
こうした状況の中で、公武合体論や雄藩連合政権構想などが論ぜられ、更に薩・長2藩を中心に王政復古の気運が高まり、倒幕の動きは更に顕著となり、遂に慶応3年(1867)徳川慶喜(よしのぶ)の大政奉還により250年余に亘る徳川幕府の崩壊をみるのである
全国的にも有力な外様大名であった備前池田藩は、幕末維新の渦中にあって、一貫して尊皇攘夷を藩是(はんぜ)として重要な動きを続けてきた。 8代藩主慶政(よしまさ)はペリー来航に際し、幕府からその対策を下問された際、攘夷論を主張し、房総海岸警備や大阪湾警備(安政5年 1858)などに多数の藩兵を派遣している。やがて文久2年(1862)薩長2藩と同様に国事周旋の任に当たるよう勅命を受け、尊皇攘夷の第一歩を踏み出すに至る。
文久3年(1863)2月、9代藩主に水戸の徳川斉昭の第9子茂政(もちまさ)がなり、尊皇攘夷の旗印のもとに朝廷・幕府間の周旋に当たる。しかし茂政の思想は尊皇攘夷・敬幕翼覇(けいばくよくは 幕府を敬いたすける)であったため、前後2回の長州征伐(元治元年・慶応2年)に出兵するが消極的な行動に終始し、また実兄慶喜が第15代将軍になるに及び、茂政の尊攘翼覇の立場は微妙になり、しばしば家臣団から批判される。
慶応3年慶喜は大政奉還を建白するが、その前に朝廷は薩長両藩に討幕の密命を下される。岡山藩は同年12月末西宮警備の命を受けて家老以下2000名を派遣、翌明治元年(1868)正月神戸事件(神戸への行進中、隊列を横断した外人を殺傷)を起す。その頃松山藩征討の命を受け御紋御旗(錦御旗 にしきのみはた)2流を下賜される。松山藩は待罪書を提出し流血の事態には至らなかった。
これより先 慶応4年(1868)1月3日、旧幕軍の最後の抵抗により鳥羽・伏見の戦いが始まり、戊辰(ぼしん)戦争へと続く。岡山藩は討幕軍の東海道先鋒として570人が参戦する。藩主茂政は病気を理由に引退。鴨方支藩主政詮(まさあき 章政)が第10代藩主となり、以後堂々と勤王討幕の旗印のもとに関東・東北から函館方面まで転戦する。かくてこの年9月4日、明治と改元、新政府が発足する。
明治初期のあゆみ
明治2年(1869)になると薩長土肥をはじめ各藩は版籍奉還を建白、岡山藩の池田章政も2月26日に建白書を新政府に提出した。続いて同年4月頃までに大藩の殆どが建白書を提出したので、政府は同年6月17日版籍奉還を聴許(ちょうきょ)した。版籍奉還とは従来領有していた土地と人民を朝廷に返還することで、これにより封建政治が終結し、中央新政権による政治が事実上行われることになる。藩主章政は藩知事に任命され、旧領国を統治するが、その後朝廷(新政府)の指示によって政治改革と並んで封建的なさまざまな制度や規定が次々と撤廃されると共に、近代社会への新しい体制が築かれていった。
次にその主なものを年代を追って述べる。

○明治2年(1869) 9月、藩士の知行制度の全廃、俸禄を10分の1に減額、生活難の藩士救済のため士族殖産事業の奨励。 10月、藩職制の改革、人材の抜てき。
○明治3年(1870)  4月、郡・村の役職改正、大庄屋→大里正、庄屋・名主→里正。9月、平民に苗字許可。全国一統の藩制改革(藩士の家格・等級の全廃)。10月、結婚自由。
○明治4年 (1871) 1月、悪田畑の改正を行い相当の租税を賦課するようになる。7月、廃藩置県の詔、藩が県に。11月、岡山・深津(備中)・北条(美作)の3県に統合、岡山県参事に旧藩士新庄厚信が任命される、県庁は石関町旧郡会所。農民一揆(約6500人)。区制設定ー大区小区制施行、岡山城下を5大区、郡部を39区に分ける。
○明治5年 (1872) 2月、昨年2月に公布された戸籍法に基づく一般戸籍を編成する(壬申戸籍 じんしんこせき)。田畑の売買が自由になる。4月、政令により大里正を区長、里正を戸長と改称する。7月、地租の改正、地券の発行(壬申地券)、大蔵省通達により全国一斉に地券を発行する、土地所有者の確認証である。またこの年従来の年貢米をすべて金納とするようになる。8月、学制が発布され近代的教育制度の基が定められる。11月、太陽暦を採用、12月3日をもって明治6年1月1日とする。

地 券

○明治6年(1873) 1月、国民皆兵の法令により徴兵令を制定、太政官告論中の「西人(西洋人)これを称して血税とす」の文言があり、実際に「生血」をしぼり取られるものと誤解し血税騒動が全国的に起こっている。6月、藩札と太政官発行の紙幣の交換が行われ旧藩札が破棄された。
○明治7年(1874) 2月、地租改正(注)の実施を命じる。3月、会議所定規・職制を布達する。従来の44大区を16の会議所管轄区域に再編する。
○明治8年(1875)  10月、地租改正完了。 12月、小田県(前深津県)が岡山県に合併される。
○明治9年(1876)  4月、北条県が岡山県に合併され現在の岡山県が成立する。
(注)地租改正 県は、明治5年7月からほぼ2年間で壬申(じんしん)地券の交付を完了し、地租改正の準備を行い、明治7年2月から改正の実施を命じた。地租額の決定については旧貢租のほぼ3分の1に当る20万円減租の計画をたてていた。当時県参事は長州出身の石部誠中で県内事情にうとく、実権は県士族で権参事の西毅一にあり、また役人は農村地主層を代表する者が多かった。このため政府の方針を殆ど無視し、農村の戸長・総代などと連携して県独自の租税計画推進の運動を展開した。こうした状況の中、翌年10月石部権令は辞任、代って薩摩出身の高崎五六が県令として就任、県役員の罷免や稲刈中止の命令など強硬策にょって政府案の受諾を強要した。このため遂に10月27日県内全域が政府案を受諾し、地租改正事業を終えた。その結果を概観すると、田畑宅地面積は旧藩時代より40%余増加している。また新地租は旧租貢と比較して3~5%程度減少しているが、旧来の租税水準は継承されている。

以上幕末から明治初期にかけての激動期について概略を述べたが、わがふるさと平井においても人々にとっては争乱・変革の渦中にあってさまざまな問題に直面し、苦悩し、新旧交替の不安な中でご一新に期待を持つ日々であったと思われる。特に耕地の少ない零細な農民は重い年貢を課せられた田畑を放棄して、実入りのいい農業外への道を選ぶものが増え、散田が増加した時期もあったようである。また家禄を打ち切られた士族授産のための施設も造られていたらしい。徴兵令の施行により鎮台兵として陸軍に入隊した青年もあったと思われる。こうした急激に進む改変の嵐の中で、土地・租税問題や徴兵令反対のための農民一揆が随所で見られる。上道郡でも山陽道沿いの備前中部で前後10日余に亘り不穏な状況にあったという。一揆の対象は地主豪農層であったり、各地の役人・富商であった。だがふるさと平井にかかわるこうした記録は一切見当らない。恐らく人々は、不安と貧苦の中でよりよい生活の道を模索しながら、岡山城下に近いこともあって文明開化の波に乗り、新しい郷土造りに励んで来たことが偲ばれる。

 (つづく)

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