「ふるさと平井」シリーズ№12を掲載

投稿日:2020年12月1日

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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№ 12 p.77-94)

          第3章 池田藩政下の平井

   9.旧跡・伝承など

峠の茶屋
昔、東山峠の旧道の一番高い辺り、尾佐無神社の上の道路沿いに茶屋が軒を並べて賑わっていた。湊と門田村にまたがる地域である。この茶屋の起源については「備前奇人伝」の中に次のように書かれている。
「門田大徳院に太郎兵衛という納所(なっしょ 庶務係)あり。蕎麦(そば)切り上手にて、津田左源太(永忠)そこの住持と心安く、つねに蕎麦切りを振舞われ、この太郎兵衛も酒の相手に出でけるが、左源太の気に入りとなり、太郎兵衛宿入り(休日)のたびおとずれては、身の上話などせしが、左源太聞いて、沖新田出来(しゅつらい)より峠往来も人繁きところとなれば、其方(そのほう)茶屋をはじめてはと話すすみて、大徳院と左源太両人の世話にて居宅をつくり太郎兵衛がそば切り屋となりておりおいおい屋敷も多くなりしと……」18世紀のはじめ頃、今から250年ぐらい前のことである。
それから50年ぐらい経った寛政元年(1789)に備前の藩儒で名高い井上蘭台が江戸から岡山へ下った時の日記に、
「三月二十五日円山(曹源寺)道の峠の茶屋へ行きぬ、ここの蕎麦切り名物なり。一人前三匁ずつにて蕎麦・吸物・酒肴まで出す」
とあるからよほど有名になっていたことが分かる。
時が経つにつれてだんだん賑やかになり、大きな料理屋が次々にでき、岡山城下町から内緒遊びの客が続くようになった。維新前後にはますます繁盛し、池の内あたりまで茶屋が続いていたらしい。

権八井戸

浮世絵 権八・小紫(歌麿筆)

平井元上町の山の麓に、昔権八が産湯を使ったと言い伝えられている井戸がある。「権八井戸」と呼ばれており、その一角は町内の管理地として保存されている。
権八とは、平井権八、また歌舞伎や講談で有名な白井権八のことである。歌舞伎では時代世話物として「権八・小紫物」とか、「長兵衛・権八物」「鈴ケ森」などいろいろな外題で上演されている。簡単にその一部を紹介する。
鳥取藩主池田光仲の藩士平井正右衛門(この名前もいろいろである)の息子平井権八は、父正右衛門の同僚である600石取りの本庄助太夫の暴言に怒り、助太夫を殺して出奔した。権八は幼い時から武芸の修練をつみ、家中屈指の腕前であった。江戸を指して旅をするうちに持ち銭はなくなり、止むなく強盗・追い剥ぎをして旅を続け、川崎と品川の中程にある刑場「鈴ケ森」近くまでやってきた。ここには雲助がたむろしており権八から銭を奪おうとしたので、これに応戦し雲助1人を斬り撃退した。丁度そこへ別のかごで中年の男が通りかかり「お若えの、お待ちなせえやし」と声をかけた。これが有名な場面で関八州で名高い侠客幡随院(ばんずいん)長兵衛との出会いである。その後権八は江戸へ出て生活するうちに、吉原三浦屋の遊女小紫と親しくなり通い続ける。そのために銭が必要となり強盗・辻斬りをくり返すことになる。そうこうしているうちに遂に捕らえられ、延宝7年(1673)11月3日鈴ケ森の刑場で処刑される。これを聞いた小紫はその後権八の墓前で自害した。有名な目黒比翼塚がその後できたという。

権八井戸

どこまでが史実なのかは不明だが、平井権八は鳥取藩士の子供ということになっている。しかし藩主池田光仲は前池田藩二代目の池田忠雄(かつ)の子で忠雄死後お国替で鳥取に移っている。その時家臣団も一緒に光仲に従って移ったので、平井に住んでいた権八一家も鳥取へ行ったと考えられる。ということであれば権八が産湯を使った井戸が平井にあっても辻褄が合う。所詮伝承の域を出ないが。
馬の足形岩
平井元上町と網浜との境のあたりの山上、網浜茶臼山付近に「馬の足形岩」と呼ばれる巨岩がある。周囲一帯は石塔が立ちならび、その中に埋まるように高さ1m余の大きな岩があり、その上の面に径10cm程深さ15cm程の馬の蹄(てい)型の窪みがついている。一般に「馬の足形」と呼ばれており、あの辺りへの墓参に行くと一寸立ち寄ってみたい名物岩になっている。
この足型の由来については、近くに住んでおられた故吉田義敏氏の遺稿によると

馬の足形岩

「源平合戦の昔、平家の敗軍十有余騎当地へ上陸、その後源氏の追手数騎上陸し付近にて一戦を交へ、その際一方の主領格の馬の尻を槍を以て強打せられし奔馬の足跡ならんか。(口碑)」
とある。また、岡山市史(古代編)の古代の伝説の項に佐々木盛綱の伝説として
「源平藤戸合戦に出陣した佐々木盛綱が、馬を馳せてこの岩を飛び越えたとか、この岩上に立って藤戸海峡を見わたしたとかの伝説があって、岩の表面にできた馬蹄形のくぼみを盛綱の愛馬の足形と呼んでいる。」
と書かれている。
何れにしてもこの馬蹄形のくぼみは人工的に作られたものでも、また、風雨の浸食によるものでもないと思われ、こうした伝承を作った古人の発想が面白い。
斎太郎鼻
児島半島の東端、小串の海岸近くに斎太郎鼻と呼ばれるところがある。今はまわりに水田が広がっているが、往時は岩が海に突き出ていたので斎太郎鼻と呼んだらしい。平井にかかわりのある伝説なので岡山市史(社会編)により紹介する。
小串の海岸に斎太郎鼻というところがある。元禄のころ(今から300年程前)上道郡平井村に斎太郎という者がおり、家が貧乏で、父親が早く死んだためいよいよ困ったが、評判の孝行息子で母親を助けて仕事に精を出した。そのうち沖新田の開墾がはじまると母のオキタは工事場の湯沸かしの人夫に雇われ、かげひなたなく働いた。
ところが新田外囲いの堤防が殆ど出来あがり、いよいよかんじんの潮止めの日になった。諸役人がたくさんな人夫を督励して働くなかを、オキタは走りまわって湯茶の配給にてんてこまい、そのうちにどうしたはずみか足を踏み滑らして海の中へ転び落ちた。人夫たちはびっくり仰天、オキタを助けよ、オキタを救え、と騒ぎ立てたが、とうとう行方不明になってしまった。
急を聞いて馳せつけた斎太郎は狂気のようになって探しまわったが、死体すら見つけることができなかった。ところが或る夜の夢に大きな石が現われ「お前のお母さんはわしのところにいるから早く来い、わしは小串の浜の石の精じゃ」と告げた。夢から覚めた斎太郎は、すぐさま飛び起き、夜中に小舟を漕ぎだして小串の浜へ押しわたった。
あの岩か、この岩かと探し歩いたがなかなか見つからない、尋ねあぐんで舟の中にぐったりとなったとき、近くの浜辺にゆらゆらと怪火が立ちのぼり、火明りの中に黒い岩が現われた。この岩こそ夢枕に現れた岩そっくりだった。斎太郎は夢中で舟を漕ぎ寄せると、岩と岩にはさまれて母の死骸が横たわっているではないか、さっそく陸に抱えあげ、すがりついて嘆きかなしんだ。
斎太郎の様子を案じた村の人々は、舟を仕立ててやって来て、いろいろ言い慰めて連れ帰ろうとしたが、彼はどうしても帰ろうとしない。ついに霊石のある海岸に母を葬り、近くに小庵を建てて住み、永く母の菩提を弔うた。斎太郎鼻の地名は、この伝説によるもの。
孝女満喜の墓
四軒屋から東山へ抜ける坂を200m程登った西側の墓石群の中に「孝女満喜の墓」という立派な石塔がある。現在も彼岸などには花や線香が手向けられている。この墓の由来やら祭られている満喜女についての悲しい物語を、故吉岡三平氏が岡山文庫「吉備の女性」の中に書かれている文を基に略記する。

孝女満喜の墓

池田藩時代藩主は儒学に基づく仁政を政治理念とし、君臣・主従・親子・兄弟の従僕を奨励し、孝子・節婦などを表彰した。満喜女について時の大庄屋はその苦難な生涯をつぶさに藩に上申したが、藩主からの表彰には至らなかった。そこで後に大庄屋をは
じめ平井の人達が発起して、村中から浄財を集めて碑を建立し、後世に残している。
さて、満喜の父は平井村下平井字川東に住む長左衛門という貧しい人であった。病弱で働く能力も乏しく、備前国家老池田伊賀に養われていた。安永2年(1773)の隣家の火災と翌3年の自家の出火で丸焼けとなる。この時長左衛門の妻は妊娠しており、翌4年正月満喜が生まれた。満喜はすくすくと成長しもの心がつき、世間が意識されだすとわが家の貧しさを知る。家は縁者の軒先を借り、母は狂人・姉は白痴という悪条件がそろっている。こうした環境の中で満喜は10才頃から子守や他人のお使いなどで一家の生活を助け、成長するに従い枯れ木拾いや野の菜をつむなど、あらゆる手段を尽くして働いた。その間病弱の父を助け、狂人の母を守り白痴の姉を労り、不平も言わず懸命に家を守る毎日を送った。やがて15年後ささやかな貯えもでき、小さいながらもわら小屋のわが家を建てるようになるが、建築中に父は死去する。寛政10年(1798)1月のことである。
こうして働き続け他人の扶助も断り、独立独歩の生活をひたすら続けたという。しかしどこまでも天の助けはなく、文化9年(1812)正月28日、38才を最後として恵まれない苦難の生涯を終えた。一家の支柱を失った遺族はその後次々に死亡し、文政6年(1823)春絶家してしまったという。
今は満喜女の過ごした場所が川東のどの辺りになるのか知る人もない。

平井清水

平井の清水

「和気絹」という宝永6年(1709)頃に書かれた古書に、平井の清水について次の様な説明が残されている。
「平井山のふもと五軒屋という所に在り。昔、児島の人この水を以て酒を作る。その美味あげていうべからず。この故に遠近是を称して児島諸白という。畢竟(ひっきょう)その名高き事この水の故なり。当時この水にて酒を作るにいにしえに変わらずという」
何時頃のことかはっきりしないが、児島郡・郡村の人が舟でわざわざ平井五軒屋まで来てこの水を汲んで帰り、 酒を作ったところ美酒ができ、児島諸白と称され有名になった。この児島諸白は児島の名産物として古い文書にも残されている。
諸白(もろはく)とはよく精米した米や麴(こうじ)で作る上等な酒のことだが、児島諸白が美酒なのは平井の清水の所為(せい)だということである。
現在の平井元上町の山腹、竹藪の中に古い井戸が点々と残されている。その中で横5尺縦2尺厚さ3寸ほどの方形の御影石で正方形に組んだ井戸枠がある。周囲は苔むした石畳で敷き詰められており、往時を偲ばせる立派な井戸である。今は汲み上げることもないので落葉が入り、緑色によどんでいるが、それでも枠から2mぐらいのところまで水位がある。使われていた頃は相当な水量だったと思われる。恐らくこの井戸の水などが平井清水の代表的なものであろう。なおこの清水は昭和30年頃まで岡山市の造り酒屋がオート三輪で汲みに来ていたという。
柳原刑場
池田藩時代の処刑場である。現在の排水センター(元町)から西へ250m程の旭川の河原にあった。今は新堤防の外で河川敷に掘り下げられてしまったが、当時はもっと高く竹が一面に生えていたという。この刑場が何時頃から使用されていたかは分からないが、古文書の最初の記録が、寛文8年(1668)矢田部六人衆の処刑であるから、恐らくその頃からであろう。以後度々使用され処刑される人も多くなり、宝暦4年(1754)には竹垣を設けて整理するようになったらしい。丁度時代劇の竹矢らいの処刑場の場面を思わせる。

明治4年(1871)3月13日の無宿者3人の斬罪(ざんざい)が最後である。その中の1人は盗みに入って家人をしばって物品を盗り、帰り際に家人に「寝る場合にはよく戸締まりをしておけ」といって説教をしていたという。説教強盗である。
その後は近所の人が畑にしたり、川向うの刑務所の囚人の作業場として使われていた。昭和10年(1935)以降の河川改修で掘り下げたとき、刑場跡からはたくさんの処刑者の遺骨が出てきたので、操山の現市営火葬場の東の一角に埋葬し、墓石が建てられている。また、「柳原刑場跡」の碑を新堤防内に昭和11年10月28日に建立している。
刑場にまつわる話として、岡山ガス会社の東南の倉安川にかかっている橋「地獄橋」のことがある。「見返り橋」とも「涙橋」ともいう。刑場に引かれていく罪人が最後に渡る橋で、何とか助命を願う家族が国清寺の和尚さんにお願いして橋の東側で罪人の来るのを待って橋を渡らない前に「この罪人を国清寺へお下げ渡し下さい」と命乞いをすると、大抵は許されたようである。但し橋を渡ってからでは絶対に許されなかった。また重罪人と家族の最後の別れもこの橋の袂(たもと)でされたようで、時間が来ると罪人だけが橋を渡り刑場に引かれていったという。これが見返り橋とか地獄橋と云われる所以である。今なお橋の裾にお地蔵さんが祭られ処刑者の供養が続けられている。
岡山藩の鉄砲摶(うち)場跡(射撃練習場)
江戸時代の平井村に鉄砲や大筒(大砲)の射撃練習場があったと聞かれると多くの人は驚かれると思う。池田家の古文書の中に平井村杉土手鉄砲場大筒搏(うち)場に関する文書が明確に残されているのである。またこのことは土地の古老から伝承されていることでもあり、伝承を裏付ける鉄砲や大筒の弾が、明治維新以後標的のあった山陽短大付近の畑から農作業中に数多く掘り出されている。写真の徳利型の弾は「椎(しい)の実弾」(四軒屋 岡本久雄氏蔵)と言われる大砲の弾で、筒の直径8.5cm高さ18.5cm重さ2.87kgの鉄製である。ゴルフボール大の弾丸は鉛製で直径3.9cm重さ370gある。元文5年(1740)の池田家古文書の中で百目玉(100匁玉)と記された弾があるがこの写真の弾丸らしい。閑谷神社で保存されている大砲の砲身の内径と一致する大きさである。
古文書に出ている平井村杉土手は旭川の旧堤防の名称で、平井元町と上平井の間の直線部分をいい堤防上に杉菜が密生していたことからこの呼び名ができたという。その堤防道路が操山方面にわずかに弓なりに曲ったところに大筒(大砲)の射撃場があった。前記の砲弾が掘り出された所、つまり標的があった位置からの距離は約500mである。大筒を据えた射撃場跡は現在拡幅された道路下となり周辺は雑草に覆われて、往時を物語っているかのように、大きな花岡岩の石垣がひっそりと残っているのみである。

この池田家古文書のひとつは元文5年(1740)の平井村杉土手鉄砲場の改善の申し入れ書と、それに対して村役人や大庄屋の返書であり、もうひとつは弘化3年(1846)の杉土手大筒搏(うち)場の申し入れ書と、それに対する村役人及び大庄屋の返書である。それらの返書の中で往来道筋の故障にならないようにとか、百姓共が田畑が荒れて難渋しないように配慮してほしい要望が書かれていてこの地区の農民生活が圧迫されていた様子がうかがえる。
岡山藩の鉄砲搏場の記録は平井の外、宝永8年(1711)沢田村鉄砲搏場、宝暦7年(1757)奥市谷鉄砲搏場、文化10年(1813)上出石村鉄砲場などが記載されているが、大筒搏場があったのは岡山城下町近郊では平井村杉土手だけのようである。当時のわが国では外国船に対する警戒が強くなっていたころで1825年幕府は外国船打払令を出し、沿海諸大名に外国船の接近に対して即時撃退を命じたのである。岡山藩の砲台が置かれた児島湾入口の小串や、児島の田の浦には砲台跡が今も残されている。その当時わたしたちの町平井の射撃練習場で使われたこの砲弾を見るとき士族の緊張の様子と庶民たちの苦労の姿が思われる。
額ケ瀬

額が瀬付近

平井元町と旭川の対岸の春日神社を結ぶあたりを額ケ瀬という。この名の由来は、昔南都(奈良)の鹿が春日さまの額をくわえてこの瀬まで来て息絶えたので、里人がその額を祭って春日神社とし、鹿の死んだ瀬を額ケ瀬と呼ぶようになったという。昔からこの瀬は上流から流れる土砂の堆積により随分浅く、人が歩いて渡れる程度だったようだ。永禄の頃の明禅寺合戦の時にも備中三村方の将、庄元祐の率いる第3軍は、この瀬を渡って三櫂(みさお)山西麓を明善寺山(沢田)に向かったと記録されている。また旱魃で平井や三幡・倉田方面が水不足になった時には、ここを土のうでせき止めて倉安川に水を流したという。
終戦後桜橋がかかる頃まではここに渡し舟が通っており、桜橋・上平井の渡しと共に春日の渡しとして旭川東西間の主要な交通機関の役割を果たしていた。なお、岡山都市計画道路としてここに橋が架り、旭西から平井元町・湊を経て西大寺方面へ通じる道が早くから計画されているが、いまだ実現されていない。
藻深谷など
網浜の上生院のある東の谷を藻深谷という。現在では南東地域の一部は平井1丁目と表示され平井分になっている。大昔、まだ岡山平野が穴海に沈んでいた頃、この谷は深い入江で藻が茂っていたのでこの名がついたという。備陽国誌によると、
「里民の説に、古へ此所淵にて漁する者多し、其節児島郡用吉村の者この所漁して1尺余りの鯉を得たり、尊氏将軍(足利尊氏)西国下向のとき、この鯉を献ず、腹中に一寸の金仏を呑居たりという。尊氏網免許之直書を賜る。今此の村の新左衛門の先祖なる由、右網免許状は人に盗られ今備中門満寺に有りという。藻深谷は田地となる」とある。
金仏の話はとも角、古くは藻の茂った淵だったことがうかがえる。なお、この谷の西南にとび出た山に鯛釣岩とか帆干山などの名称が残されている。また、藻深谷の南側の山は轟山と呼ばれている。山に登って足を踏みならすとどんどんと響くのでこの名がついたという。
お助け井戸
湊は古くから開けた所なので数多くの伝説が残っている。古老の言い伝えによると、湊の荒神社近くの小林某氏宅裏に現存する井戸をお助け井戸と呼んでいる。むかし、瀬戸内の航路は、北回り船が牛窓から湊、天城と寄港していたようである。その当時の湊の沖合いは、広々とした大海原であった。ある大嵐の日、海上で遭難した船の人たちが水を求めて、やっと湊にたどりついた。この人たちのために地元の人たちが井戸を掘って命の水を提供した。それ以後、この湧き水をお助けの水源といい、いつからか、お助け井戸といい伝えられるようになった。最近まで祠(ほこら)が残っていたという。
ゴリ山の首塚
西湊の米山橋北にある小さな丘(およそ30~40m)の頂上付近に小さな円墳のような盛土があり、20坪ぐらいの広さがある。今は木がこんもりと茂り全体が見通せない。古くは「御陵やま」といったそうだ。このゴリ山の由来について次の2つの説がいい伝えられている。
(その1)およそ800年前、源平の戦で、陸路を西進して来た源氏の軍と、児島の平氏が倉敷の藤戸で対陣した。源氏の武将佐々木三郎盛綱は、海峡の浅瀬を渡り天城の平家の陣へ攻めこんだ。油断していた平家の軍は屋島へ敗走した。盛綱はこの戦いで勝ったので兵馬を撤収して凱旋する途中湊の米山に将兵の屍を埋葬した。この場所をゴリ山の首塚という。
(その2)およそ400年前、信長の命で羽柴秀吉は、中国攻めに姫路を出発、秀吉は3年程前から中国筋で米を高価で買上げていた。毛利方の兵糧の欠乏を狙った戦略と思われる。毛利の軍はこれらの船を押さえて東軍の行動を阻止しようと考え、児島地区に橋頭堡(砦のようなもの)を築いていた。秀吉はこの報を聞くと、すぐ宇喜多家に、児島の毛利軍を攻撃するよう命令した。宇喜多軍は大正12年(1584)4月宇喜多直家没後、嫡子秀家幼少のため与太郎基家の指揮の下、児島方面に向けて出陣する。児島の八浜付近で西軍と戦になり、基家は八浜大崎で戦死したが、激戦の後西軍を破り所期の戦果をおさめたので、部隊は海を隔てた湊米山に上陸、討ち取った甲(かぶと)首を埋葬したという。
河ロ八景
池田藩2代藩主綱政公は、琵琶湖の近江八景にちなんで河ロ八景(備前八景)を選定した。旭川河口付近から児島湾にかけての風景を詠んだもので、湾の北岸に干潟や葦原が茫々と続く頃のことと思われる。綱政公自ら和歌を作り、家臣三宅可三(かぞう 漢学者朱子学)が漢詩を残している。
河口八景は次の8題から成り、近江八景に極めてよく似せてあるので近江八景を( )書きして対比して示す。
高島秋月(石山秋月) 平井落雁(堅田落雁) 北浦帰帆(矢橋帰帆) 湊村晴嵐(栗津晴嵐)
網浜夕照(瀬田夕照) 常山暮雪(比良暮雪) 上寺晩鐘(三井晩鐘) 浜野夜雨(唐崎夜雨)

この八景の中からふるさと平井を詠んだ平井落雁と湊村晴嵐の二首について紹介する。

   平井落雁
 みだれすの つらも霧間に 見えそめて
        平井の潟(あし)に 落つるかりがね

 解説 一面の霧の間に 乱れ洲が見えはじめて
    遠来の雁が平井の干潟に舞い降りて行くことよ
 注  この歌の読み出しの部分は「ひとつらは霧のたえまに」とか
   「一行は蘆(あし)のたえまに」など数通り残されているが、
    ここには備陽記のものを載せておく

 訳 万里の彼方から飛来した雁は 雪や霜を物ともせずに飛んでいく
   お互いに相呼び励まし合う鳴き声はあわれを誘い聞くに耐えない。
   遠来の客人は想いがけなく旅の趣(おもむき)を深くする
   なお 雁は夕陽をたよりに寒い汀(なぎさ)に舞い降りてゆく

 

   湊村晴嵐
 海士(あま)のすむ 里の外面(そとも)に 干(ほす)網を
           あえす吹きまく 嵐はげしも
 解説 漁夫の住む村の外の海辺に干している網を
    たえず吹きつける嵐のはげしいことよ

 訳 長雨がやっとあがった空には 虹がまだ消えずに残っている。
   洗われた山々が 山気の光に染まる様子を むさぼるように見る。
   草刈りの人や牧童が みのがさをぬぎすてている。
   江に沿ふ村を見れば 急にあれこれと忙しくなることだろう

 

なお、綱政公の詠まれた和歌の他の6首を付記する。(備陽記より)
 月はなお 松のこずえに高島の 浪の玉にも影をやどして
                  (高島秋月)
 おい風に 帰る浦半(うらわ)の漁舟(いさりぶね) 今日のしはさのかひもあれ

はや
                                                     (北浦帰航)
 夕つく日 名残も遠くうつろうは 塩や引くらん網の浜辺に
                                                     (網浜夕照)
 夕されば 汐風までも寒さへて まつ常山に降るる白雪
                                                     (常山暮雪)
 海越しの 響(ひびき)やいずこ夕風の 便りにつとふ入相の鐘
                                                     (上寺晩鐘)
 舟かけて 幾夜かなれぬ雨の中に うき寝の枕苫(とま)の雫(しずく)に
                                                     (浜野夜雨)

 

 (つづく)

月1〜2回のペースで掲載しています。過去のシリーズは
   こちら(ふるさと平井の目次・投稿日)  から。

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