「ふるさと平井」シリーズ№11を掲載
投稿日:2020年11月16日
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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№ 11 p.74-77)
第3章 池田藩政下の平井
8. 漂 流 記
江戸時代は幕府の鎖国政策によって日本人は国外へ出ることは禁じられていた。たまたま船が嵐にあって漂流したり難破して、乗組員が国外で外国の船に救助され、送り返された記録が数10件ある。その中に備前池田藩の大船が難破し、足掛け3年に亘って外国を漂流の末帰国、しかもその船の責任者が平井村の宇治甚介と平福村の片山栄蔵という池田藩の揖(かじ)役であったという事件がある。唐船によって長崎に帰国したときの漂流人口書(くちがき)によってその委細を述べる。
乗組員 宇治甚介(37才) 松平伊伊豫守(いよのかみ)家来 揖役(船上勤務、徒士足軽格)
上道郡平井村居住 平井山妙広寺旦那
片山栄蔵(47才) 同 右、 同 右、
御野郡平福村居住 浜野村感善山妙法寺旦那
その他沖船頭・水主(かこ)など(何れも備前の者) 総勢19名
天保元年(1830)8月12日、岡山広瀬町の多賀屋金十郎の1700石積、30反帆の船「神力丸」が備前藩江戸屋敷へ納める扶持(ふち)米4620俵や藩主の雑荷物、その他糧米・塩・味噌などを満載して旭川河口の福島船番所を出航した。瀬戸内の港へ寄港しながら東航を続け、8月26日紀伊国由良湊へ停泊する。翌日紀伊沖へ出た頃から風雨が強くなり、29日夜汐見崎あたりで突然北東の突風に襲われる。帆を下ろすこともできず帆は裂け、南西の方へ漂い始める。翌日は更に風雨は強くなり、上荷を捨てたり帆柱を切ったりして乗組員一同懸命の努力をするが、舵も折れどうすることもできず、最早これまでと覚悟を決め銘々髪を切り神仏に祈った。夜になって風が少し治まったが島影一つ見えない大洋を南西の方へ漂い続ける。9月17日再び北東の大風が吹き荒れ、山のような大波が度々船内に打込み甚だ危なかったが転覆は免れる。翌18日暁方から風は徐々に静まり、その後も北東の風が幾日も吹き、あてもなく流される。
11月6日昼頃、南方遙かに山影が見えたので一同喜んだが、帆も櫓も舵もないので致仕方なく流れるままにしていたら、次第に山の方へ吹き寄せられていった。こうして7日夕方船は島に流れ着いたが大岩に打ちつけられ、遂に船は砕け沈んだ。乗組員は着のみ着のままで海中に投げ出され、船板などにつかまって甚介・栄蔵他12名の者は島へ泳ぎ着いた。この時沖船頭他4名は力尽き溺死した。翌11月8日海辺で死者の埋葬を済ませ躰を休めていると、坊主頭で頂に髪を残した(弁髪べんぱつ)裸の6人の男が様子を見に来たので、言葉は通じないが身振り手真似で空腹を告げると、水やさつま芋などを持って来てくれた。そのうち打解け、小舟に分乗して14.5町程離れた人家もある大きな島へ連れて行かれ、2・3人ずつ分かれて世話になった。最初に流れ着いた島はフィリピンの北にあるバタン諸島国(当時はイスパニア領)のボコスという処で、連れてこられたのはサプタントという島だと判った。
その後島民の案内で、舟でバタン諸島国のブシンティという所へ行き、役人に渡され、更にサルトリメンユという所で役人の取調べを受け、追って国許へ送り返す由を聞かされる。それ以降は各地で厚意あるもてなしを受けながら便船などを利用し、中国大陸を経由して長崎に帰ってきた。一行が辿った経路と月日の大要は右図の通りである。
この漂流人口書には、各地での風俗や人々の生活、対応の様子、山河の有様、また本人達の苦労話が克明に書かれており、誠に興味深い。一行は長崎到着後いろいろな取調べを受け、岡山へ帰ったのは翌年の天保3年(1832)7月30日であった。
余談になるが、宇治甚介は帰国後備前藩揖役として勤めることはなく、内海で小舟を操り漁をしながら気楽に過ごし、明治8年7月20日82才で大往生したという。なお宇治の家は平井須賀町の旭川岸に近い所にあったが、昭和10年頃の旭川大改修の際新堤防の内へ移築され、昭和50年頃に老朽化がひどくなり取り壊された。
(つづく)
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