「ふるさと平井」シリーズ№5を掲載

投稿日:2020年8月14日

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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№5 p.41-49)

              第3章 池田藩政下の平井

   1.政治のしくみと村のくらし

政治のしくみ
慶長5年(16OO)関が原の戦で天下をほぼ手中に収めた徳川家康は、3年後の慶長8年幕府を江戸に開き、260年余に亘る徳川時代が始まる。備前地方は小早川改易(慶長7年10月 1602)後、姫路藩主池田輝政の第2子忠継(つぐ)が岡山に入り、兄利隆の後見で領主となる。忠継死後(元和元年 1615)弟忠雄(かつ)が岡山城主となり、母富子の化粧料(結婚持参金)と合わせて領知高31万5千2百石が確定する。
忠雄死後(寛永9年 1632)その子光仲が幼少であったので、先に鳥取藩(因幡・伯耆)へ移封されていた利隆の子光政と国替えが行われ、以後光政を藩祖とする池田藩が明治の廃藩置県まで続く。
(注)忠継・忠雄時代を前池田氏時代という
池田光政の政治理念は儒教(儒学)の徳治・仁政におき、農本主義の立場から民力の養成を第一とし撫育(いつくしみ育てる)や救民に力を入れた。知足安分(ちそくあんぶん 足ることを知り、それぞれの身分に安じる)を教え、領民の安定を図った。封建領主として年貢の取り立ては勿論厳しく処理したが、撫育→民力の育成→年貢増徴という考え方で民を愛し仁政を施した。後世名君と呼ばれる所以である。二代綱政以後、多少の変遷はあるがこの光政の政治理念が引き継がれ、池田藩の繁栄を築いた。
さて、池田藩時代われわれの住む村の政治はどのように行われたか。
身分制度が確立し、兵農・商農の分離が行われ、村は農民が農業を営む農村として城下町などと全く区別されていた。また、村は封建支配のための行政単位で、年貢の割当・納入から訴訟・契約まですべて村単位で行われた。
統治組織については簡単に表記するが、領主の任命する郡代以下の役人と農民身分のまま自主的に政治に当たる大庄屋以下の村役人で構成されている。

右表中在方下役人は岡山藩だけのもので単に下役人ともいい、大庄屋の中から練達の者を選んで名字帯刀を許し徒(かち)の格を与え、大庄屋以下の村役人の監督に当たった。また、表以外に保頭(ほうとう)という伝達役が置かれていた。
平井村・湊村とも、こうした役職に関する古い記録は一部散見するが、系統的なものは見当たらない。どの時代に誰がどんな役で村の運営に参画したか紹介できないのは残念である。

村のくらし
池田藩政下に入り封建制度の厳しい統制の中で、われわれの祖先は僅かな土地を耕し、海に生業を求めて黙々と生きてきた。
操山山麓の地区では山の斜面に田畑を作り、竹藪を耕して野菜や竹のこ、若干の米・麦を栽培していた。今でも湊地区の山の中腹に且ての水田跡が残されている。また旭川によって運ばれた土砂の堆積地では、野菜や麦・粟などの栽培が早くから行われ、村の生活を支えてきた。旧堤防外の砂場・村前・八反地と呼ばれていた地区は広々とした畑地で、野菜などの生育には適したところで、今日なお畑として利用されているところもある。
操山山塊と旭川の土手に挟まれた地域は、中世から近世にかけて徐々に干拓され耕地が広がってきた。祇園水系の用水路が整備され、南へ向けて少しずつ新しい農地が開かれ、僅かな畑地にたよっていた人達も、米麦中心の農業に転換し、新たな入植者もあり、農村として充実してきた。
一方海に近い地区であったので、小舟をあやつっての魚貝類の捕獲に精を出す人達も見逃せない。綱政の河口八景の湊地区を詠んだ歌の冒頭に”海士(あま)の住む……”とあり、また平井地区は水主(かこ)浦や白魚などで、漁村としての記録が残されている。
更に近世中期以降、諸物資の流通機構や商取引が盛んになるにつれて、岡山城下に近いこともあって、商業的農産物の栽培が増え、農業生産物を通じて岡山城下との交流が盛んになってきた。
そのころの村の様子を備陽記には次のように記している。

 平井村 平岡新田 家数 二百九軒 男女 千三百十一人 田畠畝 百十九町五反八畝一歩半
          高 千三百十八石八斗 池 四ヶ所あり。
 湊  村 東   湊 家数 百十六軒 男女 七百二十五人 田畠畝 四十八町一反七畝二十四歩
          高 四百十九石二斗 池 五ヶ所あり。

しかし、平井地区の人々は260年余に亘る藩政下を通して耕地や人口は増え、徐々に農村として充実してきたが、特筆すべき事象も少なく多くは零細な農民として、また、漁業に携わる漁夫として封建社会の束縛に堪え厳しい時代を生きてきたのではなかろうか。

   2.平井村の漁業と白魚(しらうお)

古い書物の平井村の説明に「平場・大川端 加子浦也」(備陽記)とか、「此の所の民、漁民多し、年中業とす」(吉備温故)とある。また、岡山県の歴史には、近世初頭からあった漁村として平井村が挙げられている。
中世から近世初期までの平井村は旭川の河ロで児島湾に面していた。淡水と塩水の入り交じる川尻であったことと、特に優れた漁場である児島湾に臨んでいたことが、平井村に漁業が発達した理由といえよう。児島湾は周囲から流れ込む河川によって土砂が堆積して浅海となり、水中のプランクトンが繁殖し、魚貝類の産卵や生育に絶好の場であった。また、湾口部のあたりは両岸が干拓によって狭められたため、潮の干満によって速い潮流を引き起こし、湾内を攪拌する役目を果たしていた。このため流入する魚も多く、棲息条件をよくしていた。

平井村の漁業
備陽記によれば、17世紀後半の平井村在籍船数は「猟船小平太(りょうせんこひらた)五十八艘」とあり、近海用の小さな舟ではあるが、近隣の村に比べると比較的多い。漁の方法は樫木(かしき)網や唐網(とあみ 投網)、また、四つ手網などが挙げられている。樫木網とは太い樫の丸太を水中に2本立て、その間に網を掛けて潮流と共に流されてくる小魚を捕らえる漁法で、平井村では白魚漁などに用いられていた。これについては北浦村と漁場争いがあり、延宝4年(1676)幕府の裁定で杭の位置を決め、平井村はその杭の上流に網を張ったという記録が残っている。また、平井村は旭川河口から吉井川河口付近にかけ、児島湾の白魚漁業権をもっていた。

漁業の鑑札(岡山市 .の地名より)

水揚げされる魚の種類は非常に多く、江戸期の文献に残っているものだけを挙げると、有名な白魚をはじめ、こい・すずき・いな・ぼら・ちぬ・しくち・かわえびなどがある。また、砂浜でとれる蜆(しじみ)も名産の1つに数えられていた。
17世紀後半から干拓が進むにつれて漁業補償が問題になってきた。沖新田開発に先立ち、池田藩は「諸漁に影響があれば新田地で補償するから申し出よ」と再三に亘り沿岸10ヶ村に勧告した。この勧告の対象に平井村漁師71人が含まれていた。これに対して申し出たのは児島の阿津村など3村だけで、他は新田が開発されてもまだ漁場は残っているので結構ですというもので、平井村の漁業も農家の副業的・季節的なものであったようだ。
こうして干拓が進み児島湾が遠ざかるに従い、水主(かこ)浦(後記)としての特権はあるものの、湾岸諸村のような本格的な漁業ではなく、旭川筋の副業的な漁業の性格を濃くしていった。

  

水主(かこ)浦としての平井村
水主(池田藩の記録では加子)とは、水夫という意味で、江戸期、藩の賦役(ぶえき)に当たる者を水主(かこ)役といい、課役せられた漁村を水主浦(加子浦)といった。水主役の仕事は、参勤交代の他、幕吏や西国大名の往来などの時出役することで、若干の扶持(ち)米を下付される労働賦役である。池田藩は、児島湾の漁村のうち寛文6年(1666)までに32の漁村を水主浦に指定し、賦役義務を負わせている。平井村も旭川河口という要衝の地を占めるため、対岸の浜野村と共に水主浦に設定されている。明暦3年(1657)の船手御法度(はっと)によると、平井村の水主役の割当ては30人6歩で、備前藩では牛窓村に次いで多く、岡山城下(船頭町)に住む藩有の水主の補助的な役割を果たしてきた。
水主浦は藩の賦役義務を負わされる代償として、地先海域の漁業の占有権が与えられている。漁場に関する藩のお墨付きである。このことは漁村としての生活権につながることで、漁場についての出入りの際には、藩の保護により有利な結果になることが多い。平井村においても次に述べる白魚漁と関連して水主浦としての特権が認められた記録が残っている。

平井の白魚
岡山の白魚が有名なのは随分古くからである。醍醐朝の頃 (900)の書物に備前国貢進物として「押(おし)年魚」「煮塩(にしお)年魚」とある。この年魚こそ白魚のことで「押年魚」とは乾かした白魚、「煮塩年魚」は白魚の塩物のことである。白魚はおよそ1000年も前から備前の名物だったことがわかる。また食鑑(しょくかがみ)という本には「備前の平江(平井のこと)、伊勢の桑名に多し」と書いてあり、東備郡村誌の平井村の項に「冬に至ればシラウオ多し、味他処の産に勝る」と記されている。寺小屋で使われた教科書備前往来にも「額が瀬の蜆(しじみ)、平井の白魚」とある。白魚は古くから平井の特産物だったようである。

白魚四つ手網(岡山文庫より)

では何故平井の白魚が有名になったか、その理由の第一に挙げられることは旭川河口の砂地に住み、ビードロ色に透きとおって美しく、姿・形がよく、味も淡泊美味で他産のものとは一味違っていたからである。次に美味であるから池田藩から将軍家への献上品として珍重されたことで、白魚漁の漁業権が特に与えられている。このことについて備陽記には概略次のように書いてある。
「白魚は岡山より流れ出る川ロにて取る。毎年十二月に児島郡北浦村と上道郡平井村から願い出て許可を得て猟をする。十二月から三・四月までで、その間平井で捕る白魚は川内にて育ち魚も大きく味も良い。献上には干白魚にして差し上げる。名物である。」
平井村で捕る白魚は将軍家への献上品なので、漁場には立札を立て密漁を取り締まっていたという。

浮世絵四つ手網(広重筆)

白魚は体長10cm余の細長い透明な成魚である。春から夏にかけて河ロでふ化した幼魚は、児島湾内や河口付近で初冬まで過ごし、その後外海(瀬戸内海)へ出ていく。やがて逞しく成長した魚は、2月下旬頃からプランクトンを追いつつ産卵のため群をなして河ロに戻ってくる。戻り白魚といって漁師達が待ちかねているシーズンである。帰ってきた白魚は4月頃河ロの藻や石に産卵し、その後雄雌とも1年の寿命を終わる1年魚である。なおよく似た発音の魚にしろうおと呼ばれるものがあるが、これはハゼ科の魚で生態などはよく似ているが全く異種のものである。
白魚漁は樫木網や火たき網による方法が昔から使われていた。樫木網の場合は繊細な白魚を生きたまま水揚げすることはむつかしく、干物や塩漬けとして上納されていた。火たき網は舟の舳先にかがり火を燃やし、寄ってくる白魚を掬(すく)い捕る漁法で、この掬いの白魚が一番珍重されたという。明治以降は四つ手網による方法に変わった。
最後に、白魚は古くから1年魚の儚(はかな)さや美しさが歌や句の題材になっている。有名なものを2・3紹介しておく。

 月もおぼろに白魚の 篝(かがり)もかすむ春の宵  河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)

                                                                     の「三人吉三」の名科白
 白魚や 三日月ゆるる 掬い網            竹島文鳥
 白魚を ふるい寄せたる 四つ手かな         其角
 旭川に白魚のぼる春の宵 酔いたる人を車に乗せぬ 与謝野鉄幹(友人と白魚四つ手網に遊ぶ)

 (つづく)

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