「ふるさと平井」シリーズ№4を掲載

投稿日:2020年8月1日

平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№4 p.36-40)

第2章 平井の夜明けから中世へ

  7.平井山妙広寺縁起
平井山妙広寺は旭川堤防道の平井バス停から約100m程北に入った東側、平井市場地内に広い寺域(1000余坪)を持つ日蓮宗の古刹である。旧平井地区に古くから生活してきた人達は、何らかの形でかかわりを持ち親しんできた寺である。この章では古い平井の心の支えともいえるこの寺のルーツについて探ってみる。なお近世以降のことについては別項で紹介する。
南北朝時代、京都妙顕寺門流の大覚大僧正が海路旭川河口の御野郡浜野村に入り、この地の豪族多田氏の保護を得て松寿寺を建立、その後備前、備中、備後の各地での精力的な布教により、山陽道に日蓮宗が本格的に伝播した。特に備前では松田元喬(富山城主)の庇護のもと、他宗派の改宗や新しい寺院の創立などにより、日蓮宗繁栄の基礎を固めた。大覚大僧正が京都へ帰った後は、高弟日実上人によって布教が引き継がれた。この日実上人は帰京後妙覚寺を開創した。この関係から県下の日蓮宗寺院は妙顕寺を離れて妙覚寺の末寺となったものが多く、特に備前ではその大部分が妙覚寺系となった。
室町期以降も、備前における日蓮宗の主流は妙覚寺門流であり、戦国大名松田氏や宇喜多氏を宗門の保護者としてますます充実し、人々の間に深く法華信仰を植えつけていった。

妙広寺山門

さて、こうした歴史的な背景の中で、平井山妙広寺は何時頃どのようにしてひらかれたものであろうか。古い記録が乏しく確かな検証は不可能だが当山39世都守泰一上人の書かれた「妙広寺六百年史」をもとに、主として中世、即ち開山から池田藩政期前までの歴史をたどってみる。
妙広寺30世仏事院日響(きょう)上人が文化5年(1808)9月に届出(恐らく本山か池田藩か)られた文書に、
「当寺開基は、人皇百代後円融(ごえんゆう)院の御宇(う) 永和年中(一三七五~一三七八)、本山妙覚寺五代目龍華院日実にて御座候、当寺はもと法華山妙実寺と申して今の地より十丁余り北方神道山辺、元平井と申す処に有之候」
とある。永和年間といえば今から約620年余前の南北朝時代で、この時期に日実上人によって法華山妙実寺という寺が元平井の地に開かれたということである。

開山日実上人と法華山妙実寺という寺名
開山日実上人は正平20年(1366)48才の時、深く日蓮宗の教えを慕い京都妙顕寺の朗源僧都(大覚大僧正の弟子)の門に入って師事し、その名を通覚といった。その後師命を受けて西国布教の途に上られ、特に備前地域では、幾多の業蹟を残された。永和4年(1378)正月18日、師の朗源僧都が遷化(せんげ=逝去)されると、日実上人は直ちに京都に帰られ妙顕寺の後職を法兄通玄(日霄(しょう)上人)に譲られ、自分は小野妙覚という信者の別荘を寺として入られる。これが本山妙覚寺である。永和4年(1378)6月7日、津島妙善寺において61才で遷化(逝去)される。
さて、この日実上人が元平井に開かれた寺が、法華山妙実寺と称したということは何を意味するか、日実上人の師の師に当る大覚大僧正は法華寺という寺を各所に開いておられ、また妙実とは大覚大僧正の御名である。日実上人は西国布教の際、各地の大覚大僧正の留まられた跡を尋ねられたことが想像される。そして平井山の麓にもゆかりの草庵のようなものがあり、布教の足場として留まられ、後に一寺を開基されたものと思われる。寺名については大覚大僧正の遺徳を偲び、行蹟を慕ってかかわりの深い法華山妙実寺とされたのではなかろうか。

開基の場所
「今の地より十丁余り北方神道山辺、元平井と申す処」に開かれたとある。またこの寺伝をもとに書かれたと思われる江戸期の古書には、「今の地より北にあたり亀山の辺り元平井という所」(吉備温故)とある。今の地より10丁余北といえば1000m余り北にあたり四軒屋の北側の山、米山のあたりになるが、少し西に振って考えると元町五軒屋の辺になる。神道山とか亀山がどの山かは特定できないが、往時の状況から推考すると、今の五軒屋の辺りにはすでに人が住み集落ができていたと思われる。布教のための基地的な性格を持つ庵のようなものがあったとすれば、当然人の住む里の近くということになり、今の元町(五軒屋)のあたりではなかろうか。かって元町の山裾で、並んでいる大きな石を掘り出したということから、宮の前という呼び名の場所がある。これが開基の場所と関係があるようにも思われるが、確認する手段はない。米山という説もあるが今一つ確証がない。

罹 災
前掲寺記に「然るに住侶千如院日乗の時、天文元年(一五三二)の頃地震に堂塔悉く滅却仕り、夫れより小庵を建立仕り候処、同住侶の時、天文十八年(一五五〇)の頃、堂宇並に霊宝等に至るまで焼失仕り、退転に及び候由申し伝え候」とある。
開山から150年余の間に堂塔が建てられ寺観が整えられてきたが、天文元年の大地震で諸堂が倒壊した。その後、小庵を建てて再興したが18年後に火災にあい、寺宝などすべてを焼失したという。

平井山妙広寺
前記寺記に「永禄年中(一五五八~一五六九)住侶常住院日教の時、領主平井助之進と申す仁、二親菩提のため、今の地に引移り建立仕り候、則ちその名字を山号とし、平井山妙実寺と申す由伝承候」とある。
今から430年余前は、戦国動乱の世である。備前地方も宇喜多氏や松田氏が覇を競い戦いに明け暮れた時代である。当時、元平井のすぐ上の赤土山(網浜茶臼山古墳の辺)には平井城があり、 平井助之進が城主として宇喜多の傘下にあった。寺は天文18年の大火焼失後の時期にあった。永録5年(1563)城主平井助之進が父母の霊を弔うため、現在の地に移転して再建し、名字を山号にして平井山妙実寺と改称した。前掲吉備温故などによると境内に母の墓があると記されているが今ははっきりしない。
その後天正16年(1588)京都本山妙覚寺から、妙実寺という寺名を妙広寺に改めるよう指令され、現在の平井山妙広寺になった。第14世日教上人は中興開山となり、以後400年余、旭川東南地区の日蓮宗の名刹として今日に至っている。

 (つづく)

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