「ふるさと平井」シリーズ№3を掲載

投稿日:2020年7月16日

平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№3 p.30-36)

第2章 平井の夜明けから中世へ

   6.平井城と平井氏

平井城跡

平井城
昔、平井に城があったと言ってもにわかには信じられない人が多いと思う。池田藩時代の文献によると「古城、平井村、平井右兵衛尉(うひょうえのじょう)家兼、同助之進光信、大永の比(ころ)より代々居城す。代々松田の麾下なり」(吉備温故)とか、「古城、平井村、平井助之進という者居城すという。平井右兵衛尉家兼、のち光信とあらたむ。大永の頃より本郡(上道郡)平井村に来たり、代々居住す」(備陽国誌)とある。また東備郡村誌の宇治郷、平井の項に、「城址、赤土山、平井助之進が古居」とあり、 何れも平井に城があったことを記録している。
大永年間といえば1521年~1528年のことで、中世、戦国動乱の時期である。備前地方も、守護代浦上氏や西備前の豪族松田氏、備中の三村氏などが、権勢拡大のため策略を練り、戦に明け暮れた時代である。
城といえば大阪城や岡山城などの大城郭を想像しがちであるが、中世、戦国動乱期の城は、山の上や河川・沼などに囲まれた、天然の要害の地に築かれたものが多く、砦程度の小さな城塁が殆どである。岡山付近にも数十箇所の城跡が記録されている。平井城は赤土山にあったといわれている。今、その場所を特定することは極めてむつかしいが、「赤土山は古の貴人の墓なるべし」(東備郡村誌)という記録や、現在の山陽短大附属幼稚園の西の竹藪のあたりは赤土であり、そのすぐ北西の小高いところは砦跡ではないかという言い伝えなどから合せ考えると、その近辺で最も高い網浜茶臼山古墳の山を中心にこのあたり一帯が古城跡ではないかと思われる。
古来大型の古墳は小高い丘や山上に築かれたものが多く、中世の山城はこの古墳を利用して構築されたものが各所に散見されている。当時はまだ墓地にはなっておらず、四方への眺望がよく、西南に旭川・児島水道を望む要衝の地で、地方の豪族平井氏がここに柵を囲らし、石塁を築いてその中に舘(やかた)を建て居城していたのではないかと察せられる。

平井氏
次に平井氏について、文献にみえる平井にかかわりの深い人物を整理してみると、平井七郎入道、平井右兵衛尉家兼(のち光信)、平井助之進利政、平井庄(荘)左衛門などが挙げられる。これらの人々と平井城や平井という土地との関係について考察してみる。

平井七郎入道 すでに荘園「荒野庄」の項で述べたように、南北朝時代のはじめ、春日神社の社領であった荒野庄への濫妨(らんぼう)をくり返し行っている。当時の備前における有力な武士・悪党で、鹿田庄の松田左近将監らと同じく在地領主としての権力を確立しようとした者であろう。年代的に平井城とのかかわりは考えられないが、荒野庄の新開地の開拓などには関係のある人物ではなかろうか。

平井右兵衛尉家兼 大永の頃 (1521〜1528)平井村に来て代々居住している。何処から来たかは明らかではないが、武将であるので恐らく平井城の柵を囲らし、砦を築いた最初の人物ではなかろうか。当時の備前は東部地方では浦上兄弟の確執、宇喜多の台頭などがあり、西部地区では金川城の松田が所領を固め、浦上勢や備中勢と戦っていた。西備前に位置する平井城は「松田の麾下なり」と書かれているが、必ずしもそうとは断定できない。家兼は天文年間後期(1552~1554)に浦上方の武将として数々の戦功をたて、浦上正宗などから感状をもらっている。その感状が子孫の家に残されているという。思うに戦国弱小豪族の常として、日和見的な対応が生き残る唯一の道だったからかもしれない。

吉備温故には「平井右兵衛尉家兼、後光信と改む。大永の頃より上道郡平井村に来りて代々当村に居住す。字喜多の頃より子孫民間に下りて、今邑久郡山田庄に移り又三郎という。」とある。また黄薇(きび)古簡集には「(前略)…この又三郎雪春は六孫王経基十一代の孫平井七郎重綱より七代の孫平井加賀守秀名、其の孫左京亮氏重、其子右兵衛尉家兼(松田の麾下にして大永の頃、上道郡平井城主)の子左兵衛尉氏兼也。此氏兼の四代の孫三郎兵衛実信の時より代々山田庄に住し、子孫平井と名乗りして久しく経けり。」と書かれている。そして邑久郡の平井家に伝わる家系譜(左図)は、次のように記録されている。

これによると家兼、朝能、氏兼までは平井に居住し、実信の代から邑久郡に移り帰農したことが窺える。
次に、上平井の平井高男氏の家に伝わる過去帳の冒頭(下図)に書かれている文章と同じ古文書が邑久郡平井家に残されているので紹介する。

平井高男氏の家に伝わる過去帳

「平井沖極楽寺円福坊真言宗にて安住院末子、平井宇兵衛法号一道、受法天正五丑年、右極楽寺を日典妙楽寺に改寺して取立申され候、その後宇兵衛子息佐兵衛五百石の知行、御内證にて上り、両代官付申候、富山半右衛門千石、下妻茂右衛門三百石、権之丞、兄三郎兵衛山田庄に移り農家と成る。権之丞時節相待、先祖の業を続けたく仕官の望之あり、八才の時より平井村妙楽寺に寓居、十八才にて病死。(中略)右権之丞殿十八才にて死去に付、平井氏家附之武器等妙楽寺より兄邑久郡山田村平井三郎兵衛尉宅へ贈られる。」この古文書に出てくる宇兵衛・佐兵衛は文字は違うが、家兼・氏兼に間違いなく、この文章が上平井平井高男家に伝わる過去帳の冒頭の文と同じであるということは、当家が平井右兵衛尉家兼の一族とかかわりのある家であることを意味するものと思われる。文中「佐兵衛の知行が御内證にて上り」となっているがどのような理由で加増になったかは解らないが、平井城主家兼一族が上平井に居を移すについてのいきさつがその辺にあったのではなかろうか。
また、邑久郡山田庄で民間に下った実信(三郎兵衛尉)の弟権之丞が御家再興を図るため、8才の時妙楽寺に寓居したとあることからも、上平井には、右兵衛尉一族の相当の勢力が根づいていたと思われる。
何れにしても上平井、平井姓の方々の先祖は何らかの意味で、平井家兼一族とかかわりがあると考えられるが、確認する手段がない。

平井助之進利政 単に平井助之進と書かれた人物のこととして解説する。
平井氏は「播州からこの地に移った」という説があるのでそのルーツを調べてみると、 現兵庫県竜野市の西約半里(2km)に平井郷というところがあり、播磨国司平井保昌が住いしていた。その子孫、平井備中守入道浄理は平井郷の地頭となり龍野城主赤松下野守の家臣として転戦した。浄理忠死後、下野守の弟祐利が平井家を相続し平井備中守祐利と名乗る。その子平井助之進利政が永録年中(1558~1569)、赤松浦上方の宇喜多家に与力して赤土山の平井城に入るとされている。これは勝田郡勝北町西下の平井一族が、昭和31年平井氏祖霊碑建立の際調査した資料に基づくものであるが、播磨の平井助之進利政が平井城主として入城したことがうかがえる。助之進平井城主として在城中、妙広寺再興などの業績が伝えられている。
時が降って天正7年(1579)平井助之進は宇喜多直家の命により、作州での毛利勢との攻防に際し、 苫田郡西屋城の軍監として差遣(派遣)され、同10年(1582)の春、西屋城落城の折討死したとの記録が残されている。
助之進の子八郎左衛門は平井村に住んで宇喜多に属し、慶長5年(1600)関ヶ原敗戦後作州に隠栖した。また、二子新次郎は宇喜多家時代は備中新見の代官を勤め、関ヶ原後浪人、その後森忠政公、美作入国によって召し抱えられている。
平井助之進一族の系譜については、 前記勝北町西下の平井一族が調査し「平井氏事蹟考」としてまとめておられるがここでは省略する。
現在の平井地区に住んでいる平井氏と助之進一族との関係については、定かでないが、たまたまこの小誌の原稿執筆中、四軒屋の平井安久氏から連絡があり、氏の調査の結果をお教えいただいた。それによると氏の遠祖は助之進一族で、18世紀半ば頃現在の津山市横山に分家している。四軒屋へは、十数年前移って来られたということである。

平井庄(荘)左衛門 和気絹と東備郡村誌では「しょう」の字が異なるが、何れも天正年中(1573~1591)としてあるので同一人物と思われる。前記「平井氏事蹟考」の助之進一族の系譜の中に、助之進の弟祐行の名があり、平井庄右衛門と号し、備前国平井村に住いし、宇喜多家に属すとある。もしこの人物のことであれば助之進が作州へ転退後、弟が平井城をあづかり宇喜多の武将として住んでいたことで辻つまが合う。しかし、名前が右と左の違いがあるのでこう結論づけることは危険な気もする。

 (つづく)

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