「ふるさと平井」シリーズ№2を掲載

投稿日:2020年7月2日

平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№2 p.22-30)

第2章 平井の夜明けから中世へ

   4.古 墳

操山山系南西部の古墳配置図 (①網浜茶臼山古墳 ➁操山109号墳 ➂湊茶臼山古墳 ④旗振台古墳)

4世紀の初め頃から7世紀半ばにかけての約330年間を古墳時代といい、弥生時代に続く時代であり、岡山平野周辺にも数多くの墳墓が築かれている。この頃からわが国は小さな勢力が互いに対立抗争の末、支配従属化が進み、大きな統治者に統合され、更にこれら地方の豪族が大和政権の勢力下に組み込まれていった。古墳時代前・中期の巨大なものはこれら首長・豪族の墓といわれ、後期の規模の小さい横穴式古墳は、支配者に仕える幹部クラスの者達のものと考えられている。操山山塊にも大小数多くの古墳があり、発掘調査によって得られたさまざまな副葬品から古代の歴史をわれわれに教えてくれる。昨今、開発により古人の貴重な遺産の眠る古墳や遺跡が失われていくことは誠に残念なことである。
平井・湊地区に現存する古墳のうち、現在までに調査されたものについて紹介する。

 

旗振台(はたふりだい)古墳
東湊の北東端、富山・三勲学区との境、護国神社東の裏の尾根上にある。外形は浸食されているが、内部主体は残されており、発掘調査が行われている。 その報告によると中央に一辺27m四方、高さ4mの堅穴式石室とその南北にそれぞれ粘土槨(かく)(棺を納める粘土の箱)が平行に残されている。この石室や粘土槨からは鉄鏃(そく)(鉄の矢じり)・刀・剣・甲冑、玉類などが発掘され、また墳丘の一部に葺石(ふきいし)(盛り土の上を覆った石)が見られ、その周辺からは円筒埴輪(はにわ)などが採集されている。5世紀築造の古墳と推定されている。
この古墳からの南への眺望はすばらしく、旗振台という呼称は遠く南東の島々に、旗を振って米相場などの連絡をとる場所であったためと言われている。また、この古墳の主は他の瀬戸内を望む大型古墳と同じく、内海にかかわりを持つ者と考えられている。

湊茶臼山古墳

湊茶臼山古墳
湊池の内のすぐ西南の山上にある。操陽南山の新興住宅にとり囲まれて残されている。
この古墳は、全長約130mの前方部を東北に向けた細長い古い形式の大型前方後円墳で、5世紀前半のものと推定されている。今まで発掘調査された形跡はないので、内部主体は保存されていると推測される。葺石や埴輪の破片などが付近から見出されている。円墳部中央の石塁(せきるい)は保存のために新しく築かれたもののようで中は陥没しており、周囲には所々に古い石垣が残っている。
終戦前までは丘の頂上ははげ山で赤松が一本生えていたので「湊の一本松」と呼んでいたが、今は整地され「遺跡、湊茶臼山古墳」の標識が立ち、市民の憩の場となっている。この古墳にまつわる逸話は多い。或る古老の話では「この山には金の鶏が埋めてある」とか、「金の鶏は夜明け前に鳴くそうな、その声を聞いた者は分限者になれるぞな」と言われていたという。また「朱千駄といって山に朱が千貫もうめてあったとか、「播州赤穂の城主、赤松則村が有事の際に備えて運用金を埋蔵していた」などと伝承されていたようである。
往古、操山の南西端に造られたこの古墳は内海を見おろす位置にあり、恐らくこの古墳の主は海に勢力を持つ首領であったと思われる。

網浜茶臼山古墳
平井元上町の東、笹山墓地に続く山の頂上、平井と網浜の境界付近(行政上は赤坂南新町)にある。江戸時代からこの上に墓が造られ、更にその上に現代の墓が建ち、今では墓石で埋っており、墓地区画の造成による切り盛りのため墳丘の損壊が著しい。
この古墳は昭和59年(1984)5月の県古代吉備文化センター宇垣氏等の測量調査によると、全長約92m 、後円部高8m、前方部高4.5mの規模を持つ前方後円墳ということである。墳丘上の墓地の石垣の間に板石が散見されることから、主体部は板石積みの竪穴式石室が存在していたことは確実で、更に石室の天井石と思われる大型の板石が割れた状態で遺存している。これらの板石は操山丘陵を覆う花崗岩でなく、他の吉備古墳同様、香川県北部産の安山岩である。また特殊な文様をもつ埴輪片も認められている。
湊茶臼山古墳と同じく古墳時代前期のもので内海の支配に力のあった者の墳墓と考えられる。

2つの古墳の位置関係図

操山109号墳
網浜茶臼山古墳の南約90mのところ、南に延びる舌状の尾根の上に位置している。山陽短大のすぐ北西の山、土地の人が「砦跡」と呼んでいた辺りで、南に広がる平井・操南地区や児島の山並の眺望はすばらしい。
この古墳も昭和59年宇垣氏の調査により、全長76m、後円部径45m、後円部高6.5m、前方部高3.5m以上の前方後円墳で、後円部中央部に安山岩の板石による竪穴式石室が南北方向に築かれていたと推測されている。墳丘の損壊は前の網浜茶臼山古墳より著しく、石室に用いられた石材等は墓地の石垣用材等に利用された形跡が随所に見られるが、後円部崖面に竪穴式石室の一部とみられる板石積みが露出して残っている。また採集された埴輪片の文様から、網浜茶臼山古墳より少し古いものと考えられている。
網浜茶臼山古墳との位置関係は図のように考えられる。なお、前2墳と共に吉備の前期前半の古墳の中では有数の規模をもつものであり、前方後円墳成立期の吉備を考える上で重要な位置を占めるものである。

横穴式石室

操山古墳群(横穴式石室墳)
上記大型古墳の他に、操山山系には、小規模の横穴式石室が数多く存在する。平井地区にもかつては数基見られたが現在では墓地造成で殆どが姿を消し、僅かに配水池北東のあたりに一基だけ保存されている。これらの小古墳は発見されやすく盗掘が容易なため、副葬品は殆ど失われているようである。6~7世紀古墳時代のもので、この時期朝鮮から影響を受け、竪穴式から横穴式石室に変わったようで、小さな集団の有力者や大和朝廷にかかわりをもつ者が、それぞれの分に応じて造ったものと推測されている。

   5.荒野庄(平井の荘園)

古代奈良朝のはじめ、朝廷はすべての土地・人民を国のものとする公地公民制を施行し、人々には公田を口分(くぶん)田(区画割した田)として与え、生活の保証と租税の徴収などを図ってきた。また、人口の増加にともない公田を増やす必要に迫られ、荒地の開墾(墾田)を奨励した。しかし開発した墾田を公田として取り上げられることに反発が多く、思うような成果が期待できないので、遂に聖武天皇天平15年(743)、墾田は永久に私財として認めるよう改められた。これ以来、国司、郡司、豪族をはじめ寺院、神社などが荒地の開拓に全力を注ぎ、寺社、権門の私有する土地(墾田)は公地(公田)よりも広くなり、 公地公民の律令制度は根本から崩れていった。
荘園(しょうえん)とは、一ロに定義することはむつかしいが「中古以来、貴族や寺社、豪族が荒地を開墾して私有した土地」のことで、庄園ともいう。

備前国荒野庄領地図(大宮文書)説明図

操山山塊の南西麓と大川(旭川)に挟まれた平井地区は、絶えまない大川による土砂の沖積が繰り返され、何時の程にか葦の生い茂る荒野となり、8~9世紀頃には開墾に最も適したところであったようで、対岸の「鹿田庄」に関連して「荒野庄(あらののしょう)」という荘園が開かれている。この荒野庄のことは、われわれの故郷が王朝時代後半から中世にかけて歴史の上に顔を出す唯一の貴重な事柄であり、平井地区の成り立ちを説明するかけがえのない史料であると思う。
奈良の春日神社社家の大宮家に伝わる大宮文書に正安2年(1300)に書かれた「備前国上道郡荒野庄領地図」と名付けられた貴重な地図がある。この地図によると、左の方に鹿田河が流れ、その西に鹿田庄の人家が数軒並び、上の方に市と書いてある。鹿田河は現在の旭川のことで、市は七日市や十日市の地名が残っているところで、市場が開かれていた場所と思われる。川の東側の上部には二本の線で堤のようなものが東西に描かれ、その上方に家が三軒ほどある。これは海水の浸水を防ぐ堤防で、これより北はすでに開発されていた場所と思われる。この三軒屋のあたりが現在の元町五軒屋辺で、東に伸びた堤防は現在の倉安川沿いの線ではなかろうか。堤下の中央に「但此内新開也、田畠十余丁、麦作十丁、家十五宇」とある。この辺の広い地域が新しく開発された土地で、今の平井地区に相当すると考えられる。東の方には更に開墾されるべき荒地が拡がっている。南の海に面したところに直交した二つの二本線が引かれているが、これも堤防兼道路ではなかろうか。塩抜きの溝という説もある。この線に囲まれたところに畠と書かれている。荒野の先に鹿田河(旭川)の運んだ土砂で盛り上った土地ができ、すでに畠として耕作されていたものであろう。南に横たわる島は児島の山塊で「アハトノセト」は児島米崎沖の瀬、「フチトノセト」は藤戸の瀬戸である。
この時点で荒野庄、すなわち平井地区は十余丁程が開拓されたばかりで稲は塩害のため作れず、麦作が殆どで、家も十五軒程あったようである。
この荒野庄は開発領主によって奈良の春日神社に寄進され社領となっている。
荒野庄開発の時期や領主について吉備地方史の研究で藤井駿氏は次のように述べられている。
「大宮文書に見える荒野庄の伝領系図によれば、この庄の知行主であった村主(すぐり)左衛門五郎幸重なるものが後宇多天皇の建治元年(1275)これを奈良の春日神社に寄進したとある。村主幸重の家は代々この庄の開発領主であったらしく、初代の実氏から既に14代目に当たる。仮に一代を30年と見て逆算すれば、この荒野を第一代の村主実氏が開発したのは文徳天皇斉衡(さいこう)2年(855)となる。
荒野庄より旭川を隔てて対岸に存在した鹿田庄の開発は少なくとも平安初期に溯るであろうから、大体同じ地理的条件の下にある荒野庄も平安初期に誕生した、と想像してもあながち附会(ふかい)(こじつけ)の説とはなるまい。思うに村主氏は鹿田庄の豪族として鹿田庄の庄官をつとめるかたわら、早く対岸の荒野の開墾を実行し、やがてこれが開発領主となり、相伝えて14代村主幸重の代に至り、何等かの動機で、鹿田庄の領家なる興福寺の縁により、荒野庄を春日社に寄進するに至ったものと考えられる。
このことから推察すると約1100年程昔から旭川沖積地の砂丘や荒廃地が開拓され平井地区の平地部が造られてきたことになる。
なお荒野庄は春日社の祠官の知行となるが、社会的動揺の甚だしい時期には荘園の維持は、不安な状態であったようである。貞和5年(1349)の大宮文書の「荒野庄における平井七郎入道などの濫妨(らんぼう)の訴状」などの記録があるが、備前の有力な武士であった平井七郎入道が南北朝の社会的混乱に乗じて、武備の微弱な社寺領をおかし、その領主権を確立しようとしたものであろう。

 (つづく)

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