郷土誌「ふるさと平井」の連載を始めました
投稿日:2020年6月13日
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平井学区コミュニティ協議会発行
「ふるさと平井」から
(シリーズ№1 p.15-22)
第2章 平井の夜明けから中世へ
1.政治のながれ
操山南西面の低い丘陵地帯に住まいを持っていた人達は、人口が増えるに従って集落としての共同生活をはじめ、更に旭川の運ぶ土砂の沖積によってできた平野部へ生活の場を徐々に移してきた。この時代、即ち古代から中世までの1000余年という気が遠くなるような期間、私たちの故郷は行政の上でどのように位置づけられていたか。この地区にかかわる資料はほとんどないが、その流れについて時代を追って略記する。
先ず、古代吉備の国は、「日本書紀」によると崇神(すじん)朝のころ吉備津彦が四道将軍の1人として山陽道に派遣され、この地を治め、その子孫が応神天皇のとき、この国を7つの県に分けて、それぞれ県主(あがたぬし)となったとされ、7つの県を統治する者として吉備国造(きびのくにのみやっこ)が置かれていた。この国造は上道県主上道臣(かみつみちのあがたぬしかみつみちのおみ)か川島県主下道臣(しもつみちのおみ)のどちらかであった。これが行政区画の始めであり、操山々系一帯は上道県(かみつみちのあがた)に属していたと思われる。
降って奈良朝のはじめ孝徳天皇の大化2年(646)大化の改新の詔が発せられ、諸制度の改革の1つとして行政区画の改変が行われた。即ち、全国に国、郡、里の制を建て、国の下に幾つかの郡、郡の下に数個の里(奈良時代後期に里を郷(ごう)に改める)を置き、国司、郡司が統治する制度である。吉備の国は、やがて備前、備中、備後、美作の4国に分かれ、備前国にはその下に上道郡など8郡を置き、更に郡は幾っかの郷に区分されて統治された。
この頃のわれわれの故郷は操山南西麓に僅かに集落がある程度で、平野部は葦の茂る荒蕪(ぶ)地で北から少しずつ開発されている時代であり、上道郡の地域ではあったが、郷への所属ははっきりしていなかったのではなかろうか。
次に時代は少しさかのぼるが、聖武天皇の天平15年(743)、土地の私有が認められることになり、大和朝廷の統治下に組み込まれた地域とは別に、荒地の開墾による荘園が各地で開かれてきた。備前国でも多くの荘園が生まれ、上道郡にも6〜7荘が開発されている。10世紀頃から旭川下流東岸に荒野庄という荘園が開かれている。旭川の運ぶ土砂によってできた砂しを開いた荘園で、これが現在の平井地区に当たると考えられている。荒野庄については第5節で詳しく述べるが、平井地区平野部の誕生といえよう。
時代は移り、源平争乱後の文治元年(1185)源頼朝は従来の国司、郡司の制度を一切廃止し、諸国に守護、荘園や郷に地頭を置いて統治する。武家政治の幕明けである。備前国へ派遣された最初の守護は土肥実平で、以後佐々木信実や長井泰重・加地氏など、鎌倉時代末期まで源頼朝の有力ご家人の時代が続く。地頭には源平合戦や承久の乱(後鳥羽上皇の院政復活のための内乱)による論功行賞として任ぜられた関東武士が多く、備前地方では児島荘の佐々木盛綱・伊福郷の松田氏などが記録に残っている。
平井地城と思われる荒野庄一帯はどうなっていたかわからないが、荘官村主(すぐり)氏が土地の豪族として権力をもち、その影響下にあったのではなかろうか。
やがて、鎌倉幕府はたおれ、建武中興、足利尊氏による室町幕府の開府(1338)、更に南北朝の内乱、戦国の動乱期と時は流れる。尊氏は鎌倉幕府の守護・地頭の制度を踏襲したが、南北朝の内乱という異常な情勢の中で、幕府を支える守護の権力の強化を図った。このため守護は次第に領主的な支配権を強め守護大名として領国を統治することになる。また地頭も守護と主従的な関係で結ばれるようになり、地方豪族として勢力を貯えていく。
備前の守護は松田氏の時代が30年程続くが、その後、赤松氏(途中山名氏の時期もある)が守護大名となり、東備前に浦上氏、西備前に松田氏を守護代に任じ統治した。やがて幕府の勢力が弱まるにつれ、力を貯えた地方豪族が覇を競い、備前では浦上氏傘下の宇喜多氏が勢力を伸ばし、戦国大名として領主権を確立した。
この頃 (16世紀)平井地域は荒野庄も人の住む豊かな美田となり、また操山南西の丘に平井氏が平井城を築いている。西備前に属することから松田氏の勢力圏にあったが、松田氏滅亡後は宇喜多氏の領有地となり、以降、戦国大名宇喜多氏の所領として近世を迎える。
2.平井地区の始まりと貝塚
数千年前の平井地区は、操山山麓の丘陵地を除いて海の底に沈んでいた。そのころの旭川河ロは、半田山と竜のロ山を結んだあたりで、今の岡山平野は操山・大島(石山・天神山)・八坂山などの大小の山々が緑なす小島として浮かぶ内海で、その南に吉備の児島が横たわっていた。古い記録によればこの内海を「穴の海」と称し、児島の東端米崎沖の瀬戸から西は藤戸の瀬まで、東西30数里、南北5里余にわたる宏大な海であった。そして、長い時間をかけて中国山地から流れ出る河川が日夜吉備高原を削り、その土砂を河口付近に沖積し、次第に岡山平野を形成してきた。この穴の海に臨む丘陵地帯は動物や魚貝類の捕獲·採集により食糧を求めていた古代の人々が生活する場所として最も適したところであったと思われ、よほど古い時代から人々が生活していた証拠がたくさん残されている。現在、比較的簡単に見ることのできる遺跡は貝塚である。
貝塚は古代の人達が食べかすなどを捨てた場所で当時食糧としていた貝の殻や魚類の骨、また土器の破片、石器などが積み重なって埋れている。かつて海や河口に近い地方の遺跡である。
平井地区でも湊の山腹(下から20m位のところ)に昔から見られ、又、四軒屋でも谷間の田畑の中や山陽学園大学の校地などで掘り出されている。貝殻の主体は灰貝の殻である。灰貝とは、殻長約5cmぐらいの二枚貝で、殻は厚く18本程の放射状の溝がありその上に顆粒がある。わが国の西南部並びに東南アジア海岸の泥深い浅海に多く見られる貝であり、児島湾内でも締切堤防のできる以前は、高島の東側の干潟でとれていた。
児島湾沿岸の貝塚でみられる貝殻は、あさり、 かき、灰貝、やまとしじみ等があり、内陸部ほどやまとしじみが多い。貝の種類によってその当時の海水塩分の濃さが判断でき、あさりは塩分の最も濃い海水、やまとしじみは塩分の少ない河口付近、かき、灰貝は前の2つの中間程度の海水に棲息している。湊や四軒屋の貝塚の主体が灰貝であるということは、この貝塚ができた時代、すぐ沖合まで灰貝のとれる比較的塩分の濃い海であったことを物語っている。
なお、土器類などの破片が採集されていないので、この貝塚のできた年代の確かな考証はむつかしいが、弥生時代後期(2〜3世紀)の比較的新しいものということである。
3.高島と春の湊
「古事記」「日本書紀」という日本で最も古い文献に、われわれの郷土に関係の深い地名が2つある。1つは神武天皇東征時に駐船された高島であり、今1つは神功皇后が新羅国(現韓国)からの帰路、立ち寄られた春の湊である。
高島
竹島ともいい、往時は海が操山山麓まで入り込んでいたので、湊のすぐ目の前に浮かぶ小島であった。
紀元前数100年、神武天皇は大船団を率いて九州(筑紫)を出発し、瀬戸内海を東航した。各地に幾年かずつ駐船して、食糧や兵員を補給しながら、岡山県内と考えられる「高島」の地に停船された。この高島については現存する地名から旧高島村や、笠岡の神島など幾っかの場所が考えられているが、その1つに、児島湾上に浮かぶ小島高島が挙げられている。
文献によると3年〜8年の駐船とある。神武帝東征時、これ程長期間停船した場所は他には見えない。ここに長期間滞在されたのは、恐らく当時から鉄のとれる豊かな「真金吹く吉備の里」で戦のための武器や諸物資・食糧・人を調達することと、更に畿内(大和)進攻の時機をうかがっていたためと思われる。東征軍は高島出発後1か月余で紀伊に辿りつき、大和へ向かったという。
島の南端に船着場があり、そのすぐ上の砂浜の中に神武天皇を奉祀する高島神社の社殿が第2次大戦中に造営され、現在も対岸の宮浦の人達によって祭られている。
なお、この島には備前国分尼寺の跡と伝えられていた真言宗の松林寺があったが、今は対岸の宮浦に移っている。また島の山上に磐座(いわくら)があり、その前から石製模造品の剣・玉・鏡や土器などが出土し、現在岡山城内に展示している。5世紀後半から6世紀にかけての祭祀の場であったことが知られている。
春の湊
神功皇后せっ政元年(300年頃)、朝鮮からのご帰還の途中、波静かな内海の操山南麓へ船を泊められたところで、春2月、早春であったので春の湊と呼ぶようになったと伝えられている。湊とは水上の人が集まるところという意味で往時は舟や人や物が集まり賑わっていたと思われる。
旭東小学校に「上古上道郡網干(あぼし)之浦風景」という絵画が所蔵されている。明治29年に網浜の渡辺享という絵師が、約1000年程前を想定して描いた彩色の想像図である。この絵画の説明に「春の湊は天平のむかし船着にて、今の平井より湊の間を云えり」とある。このことから推察すると春の湊は操山丘陵南西麓一帯の総称のようにも考えられる。
古老の話によると神功皇后ご駐船のとき船を繋いだとされる椋と榎の巨木が最近まで山の中腹の現在の毘沙門堂の境内にあったと伝えられていたが、今は枯れてない。毘沙門堂は明治になってから祭られたもので、下から30m位のところにあり、このことは事実として理解しにくいが往時は海が山麓まで入り込み、平野部の沖積も進んでいなかったので、古代のかなり大きな船でも舟繋りできたものと思われる。貝塚なども毘沙門堂を少し降ったあたりにあり、また、古い屋敷の塀跡や井戸などが山の中腹の竹藪の中に残されていることからも察せられる。
また、室町時代(14世紀頃)の作といわれる謡曲「藤戸」に
春の湊の行末や藤戸の渡りなるらん・・・・・・・・
と謡われ、更に鎌倉時代の天台宗の高僧慈円大僧正の歌集「拾玉集(じゅぎょくしゅう)」に
波のゆく心のはてや是(これ)ならん 春の湊の春のあけぼの
見つるかな 春の湊にうきねして 霞にもるる波のはつ花
などの和歌が残されている。この歌にある春の湊は抽象的な言葉でなく、特定な場所の春の湊という名所を詠んだものであろうと古い文献も解説している。瀬戸内の名所として古くから伝承されているところである。
(つづく)
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