”浜”について

中区役所(浜3丁目)
操山中高校
操山中高

地図は浜本町公会堂を中心にしています ↑

浜本町町内会は所属世帯が850を超える市内有数の大規模町内会です。
町内にある行政、教育機関として、中区役所(浜3丁目)。中央警察署(浜1丁目)、操山中高校、また近隣に夢二郷土美術館(浜2丁目)があります。

【現在】
当地区は
2016年 RSKメディアコム跡に中区役所が建設され、中区の中心となり現在に至る。
2009年 岡山市の政令指定都市編入に伴い、住居表示が中区浜となり、中区浜3丁目、RSKメディアコム内に
      中区役所が設置される。
1981年 一部が浜及び、同1~3丁目となる。
1971年 旭川上に新鶴見橋が完成し、原尾島ー番町線(402号)が開通し、岡山市街地の一角を占めるように              
      なる。
1956年 第一岡山高女と第二岡山中学が統合され、県立操山高校となり、分散していた校舎を統治に統合した。
1939年 県立第一岡山高女が当地に移転。

【明治、大正の浜地区】
1915年(大正4年)西大寺鉄道が後楽園駅(浜2丁目、現夢二郷土美術館辺)まで延長され、西大寺ー岡山間の
      ターミナルとなる。
1891年(明治24年)の戸数67,人口は男154,女139、水車場1。
1889年(明治22年)~現在の大字名ははじめ宇野村、1931年(昭和6年)より岡山市の大字。
1871年(明治4年)岡山県に所属、1876年(明治9年)に上道郡に編入、1889年 宇野村の大字と
      なる。

濵村の周囲に東河原村、西川原村、竹田村が見え、百間川を越えて藤原村、その上は判読出来ないが、さい村なのか?

【近世の浜村】
江戸期から明治22年(1889)までは備前国御野郡浜村。
宇喜多氏、小早川氏の支配を経て、慶長8年(1603)から岡山藩領。
村高は、「領分郷村高辻帳」710石余、「天保郷村帳」1,004石余・・・。
また、「備陽記」では高710石余、反別50町4反余、家数42,人数227、枝村に出屋敷、浜小性町がある。
(浜小性町:宇喜多秀家の小姓たちの住まいがあったと言われる。場所は現在の後楽園入口付近)
貞享3年(1686)藩主池田綱政が津田永忠に命じて、浜村の南部から国富村西部にかけて後楽園の造成を開始。
「吉備温故秘録」によると、当村の小性町の地には侍町があったが、後楽園の造成によって人々の家居はなくなり、
地名のみが残ったと記す。
江戸期の当村は、岡山城下へ供給する蔬菜栽培が盛んであった。
ちなみに江戸期の東西交通は乙多見、原尾島から森下の惣門を抜けて古京、京橋で城下に入る山陽道(西国街道)と
旭川の水運が主であった。
”平四郎の松” 後楽園入口付近に掲げられた説明
言い伝えによると築園当時(1700年頃)、この場所にあった浜村の名主平四郎の屋敷の老松の名残りだという。
(現在の松は2代目)

【中世以前の浜】
中世以前の浜の歴史はほとんど知られていないが、浜地区の小字はすべて「弐ノ坪」のように坪名であることから
律令時代の「条里制遺構」の地として知られる。
歴史的紹介は平凡社刊『日本歴史地名体系』、『宇野地区の歴史』他によっています。

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