古 里 探 訪

枝川沿いを歩く
 芳田地域を北から南へ縦断して流れる枝川は、「何処から、どうやって流れてくるのだろう・・・?」
 枝川が、時に農業用水として、また飲料水・生活用水として芳田地域に果たしてきた役割は計り知れません。
 国道30号と笹ヶ瀬川の交差部(当新田地内)の西、当新田市営住宅西の四番樋門を抜けると枝川の水は笹ヶ瀬川に注ぎます。この枝川の河口を出発地点として、枝川沿いを市内中心部に向って北上してみれば、少しは地域のことを知ることが出来るかも知れないと散策してみました。

 →枝川河川図 四番樋門・稲荷大明神へ


明治25年(1892)、岡山大洪水発生日の謎
 四番樋門の西北に東に向いて稲荷大明神の社があります。
 この小祠の「いわれ」を調べる内に、私はちょっとした歴史の迷宮に嵌ってしまいました。
 まず、「いわれ」についての記述をご紹介いたします。

◇ふるさと芳田(平成7年6月1日発行)
明治25年7月26日、この日は前日からの豪雨で笹ヶ瀬川の水位は二丈余(約6メートル)にもなり、堤はやがて決壊し承応2年(1653)以来の大洪水となりました。・・・・濁流に一個の厨子が流れてきました。・・・・稲荷大明神の像がありました。・・・・厨子を松の木に安置して、四番稲荷大明神として勧請しました。」

 インターネットの検索エンジンを使って、明治25年の大洪水を調べてみると、発生日の記述に「22日」「23日」「24日」「26日」の説が存在していることに気が付きました。(22日と記載されているものが、若干多いかと思います。)
 正確な発生日を調べ上げて誤りを批判すると云うことではなく、ネットによる情報の真偽の程を知る上で面白い実験になるかと思い、少し真面目に調査してみました。

 岡山市内の過去の大洪水と云えば、承応3年、明治25年・26年の大洪水、昭和9年9月21日の室戸台風による旭川・百間川の氾濫が思い浮かびます。

 承応3年(1654)7月の大洪水は、死者156人、城下の流裂破損家屋1,455軒に達し、ときの池田光政をして「当年の旱洪水、我等一代の大難にて候」といわしめた水害です。ただ、光政はこの災害さえも好機ととらえ本格的な農地改革に乗出しています。また、この大洪水後、治水対策として熊沢蕃山は津田永忠に、「川除けの法」を私見として伝えたと云われています。

 明治25年(1892)の大洪水は、「夏目漱石が岡山に来ていた」話と対になった話題として語られることが多いかと思います。→夏目漱石逗留の地

 明治26年(1893)の大洪水は、旭川下流の増水が前年よりも大きかったと云われています。

 昭和9年(1934)の大洪水では、「悲劇の神埼家一家」「伊原巡査」の話が伝えられています。

 ※国土交通省岡山河川事務所のホームページに、
→知っていますか?今に残る大洪水の記録で市内に点在する水位標識が紹介されています。現地を訪ねてみましたが、思いも寄らぬ所が浸水しており、その水位の高さにも驚かされました。

 ※また、岡山河川事務所には、
→岡山三川氾濫シミュレーションのページがあります。旭川右岸9.6kmを破堤点とすると、6時間を少し経過すると芳田学区の北端が浸水します。(150年に1回程度起こる大雨による被害を想定)

【文献資料−時系列的紹介−】

◇夏目漱石は、京橋町の親類先の片岡機の家に滞在している時に、明治25年の大洪水に遭遇し、正岡子規宛の手紙を残しています。
「・・・水害、なかなか烈しく、床上五尺程にも及び、
二十三日の夜は近傍に立退き、終夜眠らずに明かし・・・」

◇岡山縣御津郡誌(大正12年10月31日発行)
同25年7月23日(31年前) 大洪水前夜よりの雨は午前八時頃より暴風雨となり、午後7時止む。旭川出水二丈余、本郡旭川の沿岸堤防決潰の箇所、人家の流出少なからず。岡山三大橋墜落、旭川支流、笹ヶ瀬川沿岸の損害多く、岡山石關町、出石町、本郡南方旭川堤防決潰の為南部一面海となり、浸水床上に及び、低地は浸水軒端に達す。本郡児島湾堤防を決潰して南部一面の水を滅するを得たり。之が為沿海の地方は十数日間海中に在るが如く、満潮時には海水床上に及ぶ、稲作全く腐敗して収穫皆無となる。・・・・・」

◇今村史(昭和30年9月1日発行)
同25年7月22日 大洪水、前夜よりの雨は・・・・・<昭和の言い回しに一部変更していますが岡山縣御津郡誌の内容と同一>・・・・・」

◇ふるさと富田(昭和53年10月発行)
同25年7月23日 前夜よりの雨に加えて、暴風雨となる。旭川の出水二丈余り。堤防決壊し・・・・」

 その他、岡山市史などの文献も当ってみましたが、洪水発生日についての記載箇所を見つけることは出来ませんでした。

 文献資料では、大洪水発生日は「23日」との記述が多数を占めていました。今村史のみが、岡山縣御津郡誌とほぼ同一の内容にも拘らず日付のみ「22日」と記載されていますが、これは、御津郡誌の写し間違いの可能性が強いように思われます。

 しかしながら、これらの文献は歴史学的な資料としては二次的なものであり、洪水発生後間もなく書かれた正岡子規宛の夏目漱石の手紙が、『明治の文豪、夏目漱石』のネームバリューによって、一次的な資料に近い価値を持ち得るかどうかと云った程度の資料に過ぎません。

 決めてになる一次的な資料を求め、思い切って岡山河川事務所に調査結果を伝え照会してみました。職員の方が、時間を掛けて古い資料を当ってくださいましたが、『洪水発生日は、23日で整理されています』との回答をやっと得ることが出来ました。

 若者たちは、最近本を読まなくなったと云われています。そうした若者たちが、調査にインターネットを活用した場合、導き出される結論は「22日」になる可能性が高いと思います。

 110年ちょっとしか経過していないのに、伝言ゲームのように様々な洪水発生日がITの世界では存在しています。それは、何故なのでしょうか。

 歴史に関する多くの書物は、これまで資格を持った専門家が、ある程度の制約のもとに書いてきました。しかし、ホームページは、大した制約もなく気軽に誰でも作成することが出来ます。

 もし誰かが間違えたら、ITの力は、その誤りさえもこれまでの書物以上に増幅させてしまいます。

 そして、辞書を引くより、インターネットの検索エンジンを利用する現代の子供たちは、素直な心でそれを鵜呑みにしてしまうかも知れません。

 伝言ゲームのような様々な洪水発生日の存在は、ITの持つ危険性に対する警鐘のような気がします。

 今回の件で歴史を記述することの恐さを痛感しました。勿論、これはITの世界だけの話ではなく、本や資料を確かめもせずに何かに引用することも同じことですが・・・・。

 図書館や行政機関、現地調査に出掛けたりと調査に日数を要しましたが、「インターネットで検索すれば何でも情報を入手することが出来る」と云った安易な思い込みを払拭し、また、「ITがもたらす情報は、その信憑性について充分に吟味した後でないと使えない」と云う当たり前のことを再認識することが出来ました。

 しかしながら、依然として謎は残されています。

 ・児島湾堤防は自然決潰したのか、人為的に決潰させられたのか。
 ・「22日」の発生日を裏付ける事実がもしかしたら存在するのかも知れない。
  今村史はその根拠に基づいて、史実を訂正したのではないか。

 今村史には、大洪水(村内某氏談)と云う2ページに渡る記述が残されています。
 昭和30年代にオーラルヒストリー・自分史と云った概念はまだなかったかと思われますが、今村史はそうした歴史認識の手法を取入れています。「某氏」と云う匿名ではありますが、日記にでも付けていたのか、話の内容は具体的で真に迫っています。この「某氏」の記憶が正しければ、「23日」の発生日は誤りであることになります。

「・・・・跡植の手伝いに田圃へ行きましたが、仲々の大降りで大粒の雨が止み間なく降ります。この様な雨が三日三夜続きました。
二十二日の夜、寝ていますと表の戸を烈しく叩く者があります。父が出て見ますと村役場からの通知で『今新漠の土手が切れたから大水の用意をして下さい。』との事でした。・・・・」

 最後に、稲荷大明神の小祠の「いわれ」についてですが、明治25年の大洪水の際には児島湾堤防の決潰により、洪水による被害に加えて、満潮時には海水が流れ込んでくると云った悪条件が重なっており、「沿海の地方は十数日間海中に在るが如く」の状態でした。このため、7月26日に笹ヶ瀬川の堤防は決壊したのかも知れません。また、承応2年にも洪水はあったとの記録は残っていました・・・・。

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