岡山南部開拓の概観
岡山南部は時代を追うごとに全国的にもめずらしく大きな変貌をとげた代表的な地域と言える。
第一に、この地域一帯は岡山平野といわれ、全体的にデルタ性の沖積平野で古くから主要な米作地帯を形成してきた、特に児島湾の開拓によって水田地域が拡大し、地域における農業生産に与えた影響は大きい。
この変化は江戸時代初期から昭和期まで延々として続けられた。
第二に、城下町岡山を中心に形成された都市的側面は、単なる穀倉地帯を背景とした経済基盤に成り立つのではなく、中国地方の核心地域として各種の中心都市機能が集積され、さらに、工業化によって産業構造が多角化され経済の中心地として発展した。
この二つの大きな地域変貌は、農業的地域と都市的地域とを有機的に結合発展させた。
岡山南部開拓の歩み
岡山平野の形成は干拓の歴史である。
瀬戸内海地方は、多島海として有名であるが、それは日本内帯の南部に当たり、陸地沈隆によってかつて山地であったものが島として存在したものである。
このような形跡は、早島や児島のように河川の運搬堆積によって凹み地が埋められ陸繋島の形態を表わしている。
また、むかし岡山平野も出石、巌井あたりを残して海中に没していたが長い年月におよぶ旭川、倉敷川、笹が瀬川の堆積によって形成されたデルタ性の沖積平野である。
気候的には降雨量は比較的少なく、かんばつなどの被害を受けやすく、そのため周囲に存在する丘陵地には多くの溜池が存在する。
また、遠浅の海岸が多かったことと少雨地域を利用して江戸時代から戦前まで塩田開発が盛んであった。
児島湾の干拓は、古く奈良時代の大安寺沖の開墾に始まり、近世初期以前の干拓荘園として鹿田の荘、万寿三庄などがあり、この後、16世紀末(天正年間)戦国大名宇喜多秀家が潮止堤防・宇喜多堤を築造し近世の干拓が始まった。
17世紀中頃までの児島半島は文字通り「児島」で、藤戸は「藤戸の鳴門」とよばれた海峡で彦崎とともに港町であった。
しかし、潮流と河川による堆積の相乗作用によってデルタが形成が進み「児島」は陸続きとなった。
この近世前の干拓は、土豪見立新田が支配的で、大福新田や米倉、青江、泉田、当新田およびそれ以北の福浜新田に見られるように、集村で地割も不規則である。
17世紀から18世紀初頭に西部の湾奥に位置した早島、帯江新田と旭川左岸の備前沖新田が藩営で干拓され新田開発につくした津田永忠の巧積は大きい。
以後、約1世紀におよぶ干拓中間衰徴期をへて1824年(文政7年)総面積839haにおよぶ興除新田が造成され、幕末から明治初年の時期にはほぼ現在の集落が形成された。
明治22年から明治末期にかけて完成した錦、都などからなる藤田地区は、オランダ人ムルドルの計画によって、大阪の政商藤田伝三郎が干拓した。
現在の国道30号線は、この時の潮止堤防を利用したものである。
戦後、児島湾開拓事業は農林省直轄となり昭和28年に錦六区、都六区が完成し入植者に1..5haの耕地が与えられ、続いて七区が完成した。
この干拓地造成にともなって近世前期以降の慣行水利権等による農業用水の不足が問題となり、この問題を解決しようとしたのが児島湾の淡水化である。
オランダのゾイデル海淡水湖化にならい、1950年から59年にかけて施行された締切堤防工事は、延長1560mの堤防の完成により淡水湖が作られた。
干拓地を塩害からふせぐ役割を果たし、約5000haの灌漑が可能となった。
児島湾の面積は、近世初頭12.000haであったが明治初年には7,000haとなり現在は児島湖を含めて3,100ヘクタールであるから、約9,000haの干拓地が造成されたことになる。
文責 的場宣明
昭和12年2月生
明治30年、大日本帝国陸地測量部 |
大正14年、内務省地理調査所 |
昭和34年、国土地理院 |
昭和50年、国土地理院 |
昭和56年、国土地理院 |
平成5年、国土地理院 |