米 倉 散 策


むかしこのあたりは海だった、こんな夢を抱きながら地域を歩いてみませんか。
身近なようで意外と知らない地域の歴史。
子供や孫とウォーキングしながら話してみませんか。
「わが町の歴史」で紹介しましたが改めてウォーキング用にまとめました。
                       編集  2004年12月
                           米倉電子町内会編集委員会

<吉備の穴海>
 『日本書紀』の中に「吉備子洲(きびのこじま)」「吉備穴海(きびのあなうみ)」という言葉が見られます。吉備子洲とは児島のことで、吉備穴海とは児島湾のことです。
実は戦国時代まで、児島は吉備の国の南部に横たわる一つの大きな島でした。
児島だけでなく、箕島、早島など島のつく地名の多くは、海に浮かぶ島だったと考えられています。現在の岡山平野の大部分は海の中だったわけです。
 中国山地は古代から明治に至るまで「真金吹く吉備の国」と言われ良質の鉄の一大産地であった、しかし、当然のことながら大量の木材を消費した、膨大な地域に及ぶ森林が数百年にわたって伐採され続け、河川の沖積作用は加速され、タタラ製鉄が始まったとされる6世紀から戦国時代に至る約1千年で間に河口は年々、南へ南へと進展し瀬戸海峡は干潟が発達し、平安時代には大安寺の庄、鹿田の庄といった荘園が誕生しています。
 荘園時代を見てみると、大化の改新以来朝廷は土地の私有を認めなかったが、人口の増加で自発的な開拓を許していました、この開拓は貧富の差を大きくしたため、朝廷は開拓できそうな土地をお寺やお宮に寄進したことから各地に寺社の荘園が出来て行きました。
 9世紀から12世紀に渡る平安時代は荘園の全盛期で、奈良・京都の社寺、貴族たちは荘園になるべき土地を朝廷からもらいどんどんと開拓して行きました。
 穴海周辺には荘園となる土地が点在していた、これに目をつけた中央の大社寺は競って朝廷からこの土地をせしめ開拓荘園を作って行きました。
たたら遺跡が物語るように、製鉄が盛んに行われ、燃料に多くの樹木が伐採され山肌は荒れ、土砂は河川に流れ出し穴海の堆積作用が進んで行きました。  (旭川の源流をたどる)

<堆積作用>
 現在の岡山平野は紀元前500年ごろは瀬戸内海の海底で、年を重ね吉井川・旭川・高橋川が多量の土砂を運んで、穴海は次第に浅くなり干拓されて行きました。
 自然の法則として堆積物は河川から遠い南部ほど細かい粘土質となって行きました。
  (御野郡古図) (海面古図) (児島湾干拓図)
<荘園時代>
 鹿田の荘は、藤原氏の荘園で、南は、西市・京殿・新保まで含まれていました。
 既に、この頃から西市・京殿地区には多くの人が暮らしていたと想像されます。
<開拓の足跡>
今村開墾 1332年(正慶元年) 今から670年前
泉田新田 1628年(寛永 5年) 今から376年前
米倉新田 1628年(寛永 5年) 今から376年前
万倍新田 1637年(寛永14年) 今から367年前
平吉新田 1642年(寛永19年) 今から362年前
当新田 1654年(承応 3年) 今から350年前
金岡新田 1664年(寛文 4年) 今から340年前
平田新田 1670年(寛文10年) 今から334年前
辰巳新田 1670年(寛文10年) 今から334年前
倉田新田 1679年(延宝 7年) 今から325年前
幸島新田 1685年(貞享 2年) 今から319年前
青江新田 1698年(元禄11年) 今から306年前
沖新田 1707年(宝永 4年) 今から297年前
興除新田 1824年(文政 7年) 今から180年前
藤田一区 1905年(明治38年) 今から 99年前
藤田二区 1912年(明治45年) 今から 92年前
藤田三区 1950年(昭和25年) 今から 54年前
藤田五区 1950年(昭和25年) 今から 54年前
藤田七区 1963年(昭和39年) 今から 41年前

   (児島湾の変貌T)  (児島湾の変貌U)

(1)旧堤防の跡
 1、 西市と米倉の境堤防の跡散策
  (長川から万倍に至る)

 2、この道は、いつか来た道
  あぜ道、たんぼ道、牛追い道、思い出を育んだ道・道・道・・・・、
  今では道草をする道が少なくなった。そして道路が走る。
  時に道に迷うこともある、まわり道もまた楽しい。
  しかし、人の道を踏み外さないようありたいものだ。
  この道は、西市と米倉の境界道。
  道の右側は西市、左側は米倉。
  昔々、右側は陸地、左側は白波の立つ浜辺
であった。
  今は、人の行き交うことも無く静かに田の中を走る。。

 3、米倉と当新田の境堤防の跡散策
 (米倉港から当新田・三軒家に至る)

 この干拓を人々は、干潟に粗朶(そだ)(切取った木の枝)を敷き、小石を沈め鍬や鋤ともっこなどを使い土手を築き溝を整備し田を造成しました。

<米倉誕生>
 寛永5年(1628年)備中都窪郡松島村の浪人和気与衛門の子、与左衛門が備前に移住し、藩主の許可を得て開発されました。(今から376年前)
開発資金を援助したのが、備中都窪郡中田村の浪人細田四郎兵衛。
 その後浜野村の島村長右衛門が入植し、この三軒を元株といっていました。
<米倉の地名>
 寛永6年藩主池田忠雄が、西市新田大水門に到着しその時、数多くの人足が米俵を運び船に満載している米俵を見て、そのわけを聞いた時の池田忠雄の言葉から名付けられたとされ、次ぎのような話しがあります。
 家来が「ここは御領地の中でも重要な土地で水門の外は水深4尋あり如何なる船もつなぎとめられ南は児島方面、西は庭瀬・足守などから出船入船があり、今また開拓中のものも日ならずして完成し良田となること明らかです」と説明したのに対し、池田忠雄は「しからばここも余の米倉か」と言ったそうです。
(2)和気与左衛門の墓
 常慶寺の境内に眠っています。
 (3)大庄屋
 和気与左衛門は新田完成の後に、その功績により庄屋役を命ぜられ、のち同家は代々大庄屋を勤めました。
 屋敷後は、今ではバイパス交差点の辺りになります。

(4)回船問屋今田屋
 干拓平野には山がなく、稲わら・麦わら・川原の葦等が各家庭では燃料として使用されていました、そのため大量の灰が溜まりました。
 回船問屋今田屋は、その灰を集め瀬戸内の島々に「みかんの木」の肥料として送り、「瀬戸内のみかん」を備前・備中に運んで灰問屋として栄えました。

(5)稲荷様
 地図の上で、「稲荷大明神」として載っており、今田屋の稲荷様で、今も地域の人で祭られています。
(6)今田屋(今井家)の墓敷
 米倉墓地にあり当時の繁栄を忍ばせます。
(7)米倉渡し
 相生橋(木橋)が出来たのは明治24年(1891年)のことです。それ以前は渡し舟で、一般には米倉渡しと呼ばれていました。
 明治19年ころの渡賃は、普通の水量の時は5厘、水かさが増え流れが急な時は船頭が二人でこぐので1銭、大水の時は舟どめとなりました。渡し場の跡が、笹ヶ瀬川の東岸に残っています。
<木製の相生橋架>
 川沿いの村が力を合わせ1株20円の株券を作りお金を集めました。橋を作る費用は3540円でした。出資者にお金をかえすため有料の橋としました。
 渡り賃は1人1回5厘、人力車や荷車は1銭、牛や馬は5厘、馬車は2銭でした。
 橋の中ほどは橋板を開閉できるようにし帆柱のある舟が通れるようになっていました。架設位置は、東岸は渡し場の北に位置し、西岸は相生橋碑のあたりです。
(8)相生橋の碑
 明治24年に作られた「相生橋の碑」が西岸の堤防下にあります。(今から113年前)
(9)道標(金毘羅街道)
 岡山から上中野、西市、米倉を経て妹尾を通り下津井に至る金比羅往来を行き来する人は、この米倉渡しを利用しました。相生橋の北西隅に「右・おゝのやま・むねただ宮」「左・琴比ら宮・ゆうが宮」と刻まれた道しるべがありましたが今は木野山様の所に移されています。
<芳田村>
 明治22年(富田村・新保村・西市村・泉田村・万倍村・米倉村と当新田が合併)して御津郡芳田村となりました。
 昭和27年4月1日、御津郡芳田村ほか9村は、岡山市に編入される。(今から52年前)
 昭和57年4月1日、岡山市芳田学区から分離、「芳明学区」誕生。 (今から22年前)
(10)木野山様
 木野山神社については、つぎのような話しが伝わっています。
 明治10年前後に、米倉村はじめ周辺の村村が疫病(伝染病)で苦しんだことがありました。高梁市津川町大字今津に鎮座する木野山神社が、疫病に霊験あらたかなことを聞き、村の代表が木野山神社に参拝して、その分霊を米倉にお迎えしてお祀りをしました。
 今も、春桜のころ代参行事、そして、夏にはお祭りを行い、先人たちの思いを絶やすことなく地域住民で守り引継がれています。
(11)地神様
  地神は年に2回祭日があり、社日(しゃにち)の日と言われ春には生育を祈り、秋には収穫のお礼参りをしました。
 社日とは、春分・秋分に最も近い戊(つちのえ)の日とされ、この日土地の神が土から出て空にうかび秋の社日まで、農民の作業を守り豊作をもたらすとされています。
 春の社日には新しい注連(しめなわ)を張り、神酒と季節の収穫物などを供え、地域の人が集まり、神官を頼んで地神祭りをしています。
 またこの日は金忌(かねいみ)といって鍬(くわ)を使うと地神様の頭に鍬を打ちこむことになると言って野良仕事を休みました。
 もしこの事を知って土を動かしたら七代貧乏、知らずに動かすと一代貧乏と戒められました。
(12)常慶寺
 釈迦如来を本尊とする臨済宗のお寺です。米倉新田の開拓に密接な関係が有ります。
 寺に残る宝歴5年に書かれた詳しい縁起があります。
 これによりますと、大阪方の落武者和気治座左衛門が備中南部に百姓となって土着しました。その長子和気与左衛門が備前藩の許しを得て笹ヶ世川の下流を開拓しています。そして寛永14年に新田が完成したので藩から米倉村と命名されました。その時与左衛門が同家代代の念持仏である春日作の千手観音を本尊として観音寺という寺を建立しました。そして新田の祈願所ならびに自家の菩提所としました。その後岡山の国清寺の末社に入りました。国清寺と本末関係を結んだ機会に、和気与左衛門の法名「常慶院心月永照居士」に因んで寺号を常慶寺と改めました。
 現在の本堂は明治16年の再建で入母屋作本瓦葺の南面した構えとなっており、客殿・庫裡・山門などがあります。
(13)米倉港
 米倉港は足守川、笹ヶ瀬川の水運に恵まれ、都窪郡東部、吉備郡南部、御津郡西部の貨物の集散地で水位も深く,また大樋門内の水路が各地に通じて舟の便がよく県南の集積場として船の出入りが頻繁に行われました。昭和10年8月に「米倉港公共荷揚場」が総工費1756円で完成し備前米倉港として知られるようになった。(今から69年前)
 昭和30年代までイ草の染土や農業用の土管などの船が出入りしていた。
また、当時はこの波止場で映画や旅芸人の芝居が行われていました。
(14)石灯篭
 港では夜間、船の出入りに欠かせない標識として用いられいました。
 四角い窓は四国金比羅宮に向いており窓から覗くと金比羅山が見えるといわれ、毎月お祭りが行われていた。(今は向いていません)石灯篭の傘が逆さにかぶっています、移転時に担当者が誤って付けたようです。

(15)米倉の波止場
 米倉港は干満の差が大きく、満潮時には波止場の突堤まで海水が満ちていました。
 上流からの波除に防波堤を設け、引き潮時に大樋門や港に押寄せる波を防いでいた。
 上流500mの所にある平田港にも同様の波止場が設けられています。
 夏は、子供たちの飛び込み台になり、絶好の釣り場でもありました。
<米倉堰堤と高潮対策>
 先の台風16号では、瀬戸内海沿岸部が高潮の被害を受けました。
 児島湾締切り堤防が完成する以前、昭和29年、笹ヶ瀬川の増水により堤防決壊の寸前にまで至り、対岸の児島錦の堤防が決壊し当地は決壊を免れました。
 そして、今回の台風23号では、笹ヶ瀬川の水位が2.16メートルまで上昇し、濁流が堤防を越えて浸水し、あわや大惨事を招くところでした。
 また、東南海地震で大津波が発生した場合、児島湖堰堤を乗越え笹ヶ瀬川を上って米倉港の辺りまで達すると予測されています。
(16)大樋門
 船通しに当たっては、満潮時・干潮時でも常時通過できるよう外川と内川の水差を緩和する運河方式が用いられ、外樋門と内樋門が設けられています。
<入れ湖(いれご)>
 水利の知恵で、内樋門の近くには「入れ湖」が設けられ、樋門を締め切った時の津波を吸収する場所を設けていました。
 また、雨量の多い時も入れ湖と田圃で雨水を吸収していました。今では、都市化が進み、押寄せる雨水はポンプで笹ヶ瀬川に放流しています。
(17)藤田用水
 児島湾干拓は明治32年に藤田伝三郎によって工事が始まりました、児島湾は底無しのような泥海で、堤防が出来てもその重みで全部が泥盤に沈んでしまう、そんな繰り返しの難工事であったそうです。
 干拓地は、山の細粒土が堆積しているため土地は肥沃であるが水田地帯では、そこに水が通わなければ生きた土地にはなりません、また、逆に水が溢れても困り、利水と排水が自在でなければなりません。これが干拓地造成における最大の課題でした。
 先行開拓された興除新田の水は、高梁川流域に水利権を持つ湛井用水の余り水を利用していたが、その下流にできた藤田村の用水は極めて不安定でした。
 管掛用水は岡山市玉柏地崎に旭川の取入口を有し、岡山市に入り西川用水となり市内西北部一帯を灌漑した後、北長瀬に集溜して、笹ケ瀬川左岸地区を灌漑して、平田から米倉に至り。余水は米倉大樋門から笹ケ瀬川に放流していました。
 明治43年5月、笹ケ瀬川に木管伏超を敷設し藤田村への送水に成功したが、なお通水量が不十分なため、明治44年4月に宇野線鉄橋下にもう一基増設されました。
 その後、岡山県の旱害応急対策事業として、米倉大樋前より笹ケ瀬川米倉伏超樋を通じて南に下る藤田用水新川が誕生し、川筋の家屋は移転し、手掘りの難工事でした。
 また笹ケ瀬川に埋設された旧サイホンは上下二基とも老朽化し水中に露出し使用に耐えなくなったため、下流伏超樋延長290メートル、内径1.4メートル、そして上流200メートル、内径1.4メートルのサイホンを埋設し錦農区三角地揚水ポンプで笹ケ瀬川の地下をくぐり藤田村への灌漑用水としていました。
 工期は昭和8年1月4日に着工し翌年6月30日に竣工している。工費は約10万円を投じたとされています。(今から70年前)
  イ、管掛用水(旭川玉柏から取水)岡山平野、旭川西部を灌漑
  ロ、祇園用水(祇園地先から取水)後楽園用水・岡山平野、旭川東部を灌漑
  ハ、十二箇郷用水(高梁川湛井堰から取水)備中東南部十二箇郷一帯の平野を灌漑
    (灌漑用水系統図)
<藤田用水路の新川
 岡山県の旱害応急対策事業として、米倉大樋前より笹ケ瀬川米倉伏超樋を通じて南に下る藤田用水新川が誕生し、川筋の家屋は移転し、手掘りの難工事でした。
<藤田用水取水口>
 今も当新田焼却場東に当時の姿として保存されている藤田用水取り入れ口。
 三角地揚水ホンプは今も宇野線鉄橋南の笹ケ瀬川中央に姿を止め、干拓農業の歴史を刻んだ藤田側のポンプ管理設備も保存されている。
<笹ケ瀬川埋設サイホン
 笹ケ瀬川に埋設された旧サイホンは上下二基とも老朽化し水中に露出し使用に耐えなくなったため、下流伏超樋延長290メートル、内径1.4メートル、そして上流200メートル、内径1.4メートルのサイホンを埋設し錦農区三角地揚水ポンプで笹ケ瀬川の地下をくぐり藤田村への灌漑用水とした。
 工期は昭和8年1月4日に着工し翌年6月30日に竣工している。工費は約10万円を投じた。
 笹ケ瀬川の底に埋設されたサイホンの写真は鮮明でないが人の背丈より太く、当時の技術としてはかなり高度のものであった。

<藤田干拓と上流地域余水利用の契約>
  上流地域から余った水をもらうことにして、用水利用についての長期契約をした。
   イ、高梁川水系十二か郷汗入用水および大福用水(錦・都農区)
   ロ、高梁川水系八か郷丙川用水および西用水(大曲・高崎農区)
   ハ、旭川水系米倉用水(錦・都・大曲・高崎農区)
   ニ、旭川水系当新田用水(錦・六区農区)

(18)豊島石の井戸
 藤田用水工事に伴い、移転した和気家の井戸が歴史を物語っています。
 和気家の旧屋敷に残る「井戸」で。300年以前の物と思われ、豊島石をくりぬいた井戸で土に埋もれて深さは確認できませんが、藤田用水・新川の手堀事業が昭和10年ころに行われており、その時に住宅は移転したが井戸は新川の辺りに保存されています。
 今では、この井戸の所在を知る人も少なくなりましたが、この井戸は米倉の歴史を語る上で重要な遺産であり米倉重要文化財に値します。
<米倉と農業>
 干拓した土地で農業をして行くのに一番大切なものは水です。この農業用水の確保ができなければお米は作れません。米倉は小さな溝はあっても用水路がなく隣村の余った水を農業用水に利用していました。
 そんな中で雨の多い時は土地が低いので水が溢れ、日照の時は田植えの水にも事欠くありさまでした。「上郷のものには牛にでも頭を下げろ」干拓農民は農地の新参者でしたが、それ以上に水利用の新参者でした、上流からの余り水をもらう立場でした。
今では関心も薄くなっていますが、用水路の各所に設けられた樋門を見ると先人の苦労の跡が伺えます。
 綿の栽培は「砂真土相交わりたるところ若しくは砂地よく」と書かれている通り、少々塩分はあっても砂地で排水が良い干拓地で育つことから新田一面に植付けられた。
 この綿をさばくために自然と玉島、倉敷のあたりに綿屋、西綿屋、東綿屋の屋号を持つ問屋が次々と現れた、また綿商売を目指して付近の村々から人々が町へ集まり、新興町人、大原、大橋らは最初綿の仲買として綿作農民の中に浸透して行きました。また、19世紀中頃にはゴザ等イ製品は限られた人のみ使われ、一般の人々はわらで作ったムシロに寝起きしていた。
 イ草は古く中国の揚子江あたりから伝わり自生したと伝えられていますが。商品経済に登場したのは元禄から享保年間です、綿は高梁川河口の目の荒い土質に適し、イ草は反対に児島湾周辺の新田地帯が絶好の栽培地帯でした。
<米倉と漁業>
 江戸時代、児島湾の4大漁港は青江・今保・妹尾・八浜でした。昭和の始めまでは妹尾の町外れには磯の香りが漂っていたそうです。
 米倉・当新田は藩政時代御狩り場だったので、地区内の川や田での雑魚類の捕獲は禁じられていました。
 漁具は四つ手網・投網・ウナギかけ・釣具などでした。
 獲物は、えび・あみ・白魚・ボラ・イナ・ウナギ・べいか・えい・はぜなどでした。
 また水ぬるむころ干潟で、ちんだい貝・灰貝・も貝・かき・しゃこなどでした。
 今は天然記念物として保護されている「かぶとがに」も多く生息し、四つで網にかかり漁師を悩ませていました。

(20)水郷の街・米倉
 干拓した土地で農業をして行くのに一番大切なものは水です。この農業用水の確保ができなければお米は作れません。米倉は小さな溝はあっても用水路がなく隣村の余った水を農業用水に利用していました。そんな中で雨の多い時は土地が低いので水が溢れ、日照の時は田植えの水にも事欠くありさまでした。
 今では関心も薄くなっていますが、用水路の各所に設けられた樋門を見ると先人の苦労の跡が伺えます。

 道路は「牛追い道」と言って、牛と人がやっと通れました、しかし、水路は発達しており運搬手段は川舟に依存していた。
 川舟は、人を運び、農具を運び、稲や籾を、そして藺草を運びました。「まこも」の茂る水路を川舟がすいすいと進む田園風景がありました。

<暮らしと水(共同水道)>
 昭和の初めまで、西川用水の末端の米倉地区は、川水を生活用水にしていました。
 上水道は昭和2年3月6日起工式が行われ、昭和3年2月16日に完成し4月22日に通水式が行われた。工事総工費は58680円と記されています。(今から75年前)
 それまでは用水路の水、雨水、若しくは井戸水を使用していました、しかし干拓地の地下水は塩分も多く水質は悪かったと想像されます。
 岡山市内で赤痢やチフスなど伝染病が流行し、大正5年に岡山医科大学が移転し、西川用水の水は非衛生的なものになりました。大正12年には原因不明の疫病が蔓延し、大正13年には大干ばつで水田の用水はもちろん飲料水も事欠き、井戸を掘ったりして急場を凌いだとされています。
 しかし水道施工までには村を分けての、賛成派・反対派の論争があったことも語られています。
 岡山市水道誌によると当時は御津郡芳田村であり岡山市の市外給水は芳田村が最初で、続いて大野村が給水を受け、福浜村も昭和2年4月、今村は昭和4年4月に給水を開始しています。
 芳田村でも、井戸の水質の良いとされ反対していた西市地区は数年遅れて給水を受けています。
(20)かわいち
 道路は「牛追い道」と言って、牛と人がやっと通れた、しかし、水路は発達しており運搬手段は川舟に依存していた。
 川舟は、人を運び、農具を運び、稲や籾を、そして藺草を運びました。「まこも」の茂る水路を川舟がすいすいと進む田園風景は絵になった。
 住まいする屋敷は川に面していて、各家には「かわいち」があり「かわいち」は、炊事・洗濯・水汲み場・船着場と生活の場であった。
(21)児島湖の淡水化
 児島湾締切堤防は農林省によって、昭和26年1月(1951)着工され、昭和31年2月に潮止工事が完了、昭和34年(1959)2月に長さ1558メートル、幅20メートルの堤防締切工事が完成し、湖水面積1500haの淡水湖が出来上がった。
 それに伴い、笹ケ瀬川沿岸の生態系は変わり、地域の漁業はもとより生活環境にも大きな影響を与えました。
 (今から45年前)
 (22)汚染が進む笹ヶ瀬川
 葦は水の浄化を促進します。
 水は、淀むことなく流れることによって浄化を促進します。
 自然を、大切に次の世代につなぎたいものです。