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戦国の残影「円山城趾」

操山山系には城跡といわれるものが三箇所あり、北の「明禅寺」、東の「正木」、そして南の「円山」です。

円山城趾案内図 上道郡史によれば、『円山の八幡神社(現在の石高神社)の西北方にあり、松田氏の部下寺井(高尾との説もある)十左衛門之を守るといい、一説には宇喜田の臣寺尾作左衛門・同弟七兵衛が宅址なりという。山下に本段とか総門などの(小)字(名)残れり』との記述があります。『円山城の石高は二千石余』との伝承もあります。

また、円山在住の郷土史家山田氏(故人)によると、「円山城は、現在の盛徳院の辺りにあり、付近には古い石垣が残っている。古書に、『城の西方一町(注:約100メートル)ばかりのところに、代々の城主の墓所がある』と書かれている」とのことです。

なるほどその場所には墓所があり、宅地が開発されるまでは山の斜面に散在していたという豊島石作りの蘭塔や家形の墓石十数基が6坪ばかりの地積に整然と集約されていて、墓石の大きさ一つをみても城主の権威を象徴して余りあるものがあります。

円山城主墓所入り口高さ1m余に及ぶ累代城主の墓

累代城主に名を連ねた寺尾作左衛門・七兵衛兄弟の末裔寺尾一統は、一時期浅越の地に隠棲し、金岡新田ができた寛文年間に岡山市金田(川北)に移って現在に至っています。

その総本家(本寺尾と呼ばれる)には「ひさが持ってきた壷」(明治40年ごろ円山に住んでいたひさ〈明治9年生〉という女性が「円山の墓守ができなくなったら、この壷を川北の寺尾家に持って行け」との先祖からの遺言により背負ってきたもの)や、戦国の武勲を忍ばせる槍・脇差・旗などが伝えられています。

末裔一族によるお盆前の墓掃除 金田(川北)の寺尾一統は祖先の霊を弔い慰めるため、毎年の盆と正月前には十数世帯がこぞって、両彼岸には当番が円山のお墓へお参りしており、400数十年を経た現在でもよく手入れされた墓地に居並ぶ苔むした墓石が、“兵(つわもの)どもが夢のあと”を現代に伝えています。

取材協力:本寺尾当主 寺尾 巌 様
同 妻 寺尾妙子 様

この墓地の入り口の門扉は施錠されています。お参りを希望される方は、下記までご連絡ください。

富山学区連合町内会 副会長 小野田利正(276−4970)

(文・写真:小野田)

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