植 松 岩 實
(中四御神在住)
山陽新聞社刊「岡山の今昔」より(許可済み)

 龍ノ口山のことを調べていると、かつて狩りが行われていたことが分かりました。この狩りというのは江戸時代、岡山藩が行った巻狩(まきがり)による狩りのことです。巻狩というのは、狩猟地(山林)を多人数で囲み、これを狭めていって野獣を追いつめて捕獲する狩猟のことです。岡山藩は城下町の周辺の山々を、狩りを名目にして武芸の総合的な訓練の場として利用してきました。一番多く利用された山は高倉山の38回、ついで半田山の21回、龍ノ口山は18回です。龍ノ口山の狩りのことが最初に記録に登場するのは、1658年(万治元)で、次は1662年(寛文2)です。この次は間をおいて1770年(明和7)です。その後18世紀後半から19世紀前半にかけて15回行われ、高倉山とほぼ同じくらい利用されていました。 このことからみて、岡山藩にとって龍ノ口山がいかに重要な山であったかがわかります。
 18世紀後半から狩りが、急に増えたのはどうしてでしょうか。城下町に近いという利便性だけでは説明できません。岡山藩は1724年(亨保9)と1732年(亨保17)にあいついで山麓の村々が龍ノ口山の5合目から奥を利用することを禁じ、藩有林(御林)にしてしまいました。その後、御林では樹木が繁茂し、猪や鹿などの野獣の棲息条件がよくなり数が増え、18世紀後半には狩りをする条件が整ったことが最大の理由と考えられます。
 岡山大学附属図書館の池田家文庫絵図の一つに「竜之口猪鹿追御覧之図」というのがありますが、この絵図には広義の龍ノ口山(旭川と山陽町穂崎の間にまたがる山系)で、巻狩による狩りの様子描かれています。この絵図は1844年(弘化元)に作成されたものといわれ、同年に狩りが行われた記録があることから、この時の狩りのプランを描いたものと考えられます。この絵図は狩りの様子がわかるだけでなく、龍ノ口山の当時の情報が克明に記載されており、こんなに見て楽しい絵図はなかなかあるものではありません。

岡山大学蔵、池田家文庫より