土田村で守り、語り継がれてきた大明王
喜兵様のことについては、言い伝えのほかに墓碑と石碑しか残されていない。
土田の大恩人を村人はいつまでも忘れず、今も春秋の彼岸入りの日に、土田村の人々が祠内外の清掃を行い花や果物などをお供えしている 
山端山墓地入り口にある墓標

智浄信士 俗名城君、
家内5人霊の墓。
「為喜兵衛子共五人親子六人之」の石碑

元禄5年(1692年)11月12日、土田村中として、喜兵衛様の住居跡に建てた石碑
今から351年前の江戸時代、岡山藩主池田光政のとき、承応3年(1654年)7月19日、台風と豪雨により旭川が決壊し、岡山城下では4千戸の家屋が破壊・流失して、郡部も大被害をうけた。土田村も大災害にあい、大飢饉に見舞われた。稲は白穂になり、ほとんど収穫皆無の状態になった。村民は草の根まで食べて命をつないだと伝えられている。この時でさえ、藩から、所定の年貢を反当り5俵納入するよう迫られ、完納できないときには責任者が入牢1年という掟になっていた。日ごろの村の世話役も、このことまで責任を取るわけにはいかないとなり、議論の末、改めてクジ引きで担当責任者を決めるしかないということになり、クジ引きの結果喜兵衛さんが「ビンボウクジ」(「悪クジ」)をひいた。喜兵衛さんは、米納入につき村の代表として全責任を負うことになった。無いものを納めるわけにはいかない。その代わり1年間牢獄入りとなる。村人の代表とはいえ入牢は栄誉なことではない。喜兵衛さんには妻子5人の家族があり、その生活をどうするか。喜兵衛さんは、いろいろ考えあぐんだあげく、勇気を出し思い切って名主のところへいき嘆願した。「年貢を負けてもらうよう計らっていただきたい」。名主は「順序が違う」とにべもなくこの願いをはねつけた。喜兵衛さんは悩みぬいた。もはや妻子5人の処置と自決しかないと思い定めた。
次の年、1655年春まだ浅い日、先ず妻子5人に手を下し、自害した。喜兵衛様は村人の代表・年貢納入者として、土田村民の身代わりになった。
悲痛・凄惨・言語に絶する痛ましい限りである
この痛ましい犠牲がはらわれて、村人はとにかく事なきを得、子々孫々の今日がある。
大災害後、当時の上道郡では賃銭を稼ぐために、盲人、女性、子供なども、ざるや小桶などを持って復旧工事の砂取りにきたという。(岡山市史より)
祠内に石碑と共に納められている石仏 「大明王菩薩喜兵衛様」を
まつる祠堂。大正14年
(1925年)3月8日に、村人が中心となり、村内・近隣の寄進を得て建立された
祠内正面上の縦額

祠堂の新築落成の時、村人から贈られた尊号
喜兵衛様が自害した翌年もまた、村人は台風で苦しんだ。人々は喜兵衛様のことをしのび、その恩義を忘れてはならないと戒め合ったという。
大明王・菩薩 喜兵衛様(岡山市土田福寿会)から