里制の「里と坪」


作成 竜之口学区連合町内会
監修    岡山市教育委員会

 奈良時代にできたとされる条里制は日本各地に見られ、岡山市内でも平野部の中にその条里制地割りが見られ、ここ上道郡の西半(上道・幡多・財田・古都・可知の各郷)も広く条理の遺構が残っている。その中で、ここ四御神(旧財田郷の一部)はその遺構が非常によく残っている。関連地名も伝わっており、特に、竜之口小学校を中心に見ていくと、昔の条里制の在り方や広さなどよくわかる。
 条里制では六町(約659m)四方の里が土地の面積の基本的な単位で、吉野ヶ里のように地名として残されているところもあるが、現代では地名として里が残っているところは非常に少ない。この上道郡でも鎌倉時代の正和元年(1312)に書かれたもの(金山文書)の中に上道郡管田里(今の国府市場と推定)とあり、里が地名に使われていたようであるが、今この付近には全くのこっていない。しかし、里を三十六等分した坪は数詞の字名として残されており、この竜之口小学校も「十ノ坪」に建てられている。この学校の東が「九ノ坪」、さらにその東が「八ノ坪」となっている。この坪地名から昔の里がどのようになっていたかを推測できる。略図はこの小学校の坪から、ここにあった里を推定したものである。

 この図によって、条里制というのは縦横の真直な直線で区切られ、それに沿って道路と用水が作られていたことが分かり、併せてこの学校を基に坪及び里の大きさも分かるはずである。
 なお、横縄手(四御神)、長原縄手(前土田)の縄手というのは、碁盤目状に土地を区画するため、真直な線をひくのに縄を使ったのであるが、その基準となったところと考えられる。