神社・遺跡巡り(クリック→山口碑へ) Contentsへ戻る
1.恵美須宮 本町地区 地図
恵美須宮の静止画像  約300年前に兵庫県西宮の戎神社から分祀され、夷様と大黒様とをおまつりした由緒あるお宮です。もとは本町の繁華街の四辻の中心にあって「おえべつさま」として人々に親しまれ境内にあった樹齢500年の「いざり松」と共に有名でした。毎年9月9日の秋の大祭には、奉納される面芸も京都の壬生狂言と同様に人気を呼び、会場についで賑やかなものでした。松は太平洋戦争中に枯死し、そこにあった社は昭和35年都市計画にかかったので、現在の位置に遷宮されたのです。
 本町は観音院の門前町で商店ばかりで構成されていたので、商売繁盛の神として戎神社を分祀したと考えられる。お祭りは昔は賑やかであったが現在は行われていない。
2.山口五社宮
市場町地区(西川ぞい
山口五社宮  磯屋(山口氏)が周防から当地に移り住むとき祭っていた神を祀ったものといわれる。
 五社とは次の五つである。素盞鳴神社・大名持神社・少彦名神社・稲荷神社・大国主神社である。
 このあたりを通称権現地というが、ここがもと清平寺があったので、その鎮守としての権現を祀るところなのでその名が用いられたと思われる。現地では西大寺観音院伝承の皆足姫命を本殿にお祀りしている。
 祭日は5月13日で窪八幡宮の神官が祭祀に当たる。昔は祇園様の舟を出して賑やかなお祭であったが、現在は本殿の御開扉を行う祭事となっている。
3.和霊神社 新町地区
和霊神社
 元来、和霊神社は愛媛県の宇和島市和霊町にあるもので、その由緒は山家清兵衛公頼(藩主伊達秀宗の家老)は、廉潔でしかも出世が早かった為に同僚から嫉妬されて、元和2年(1616年)殺された。

 後世の人々は、その霊を慰めるために山頼明神としてまつった。
 息災延命、子孫繁栄に不思議に霊験があるというので、
四国では金刀比羅宮と並んで、諸人の信仰が厚かった。
 そこで、新町(中一丁目)及び北之町(中三丁目)の篤信家がそれぞれの町内の神としてまつったものである。
    
4.普門院(淡島大明神) 新町地区
普門院  普門院の本尊は虚空蔵菩薩であるが、その鎮守として淡島大明神がまつられている。
 現在は円満院も一緒になっている。
 淡島大明神は寛延2巳巳年(1749年)当院中興申孝和尚霊夢により遠く紀州加太より勧請した。
 女一代護神淡島大明神の功徳により霊験あらたか、殊に婦女子の諸願を満たして諸病も治す。
 7月12日 夏祭が行われる。
5.荒鍬宮 今町地区 地図
荒鍬宮  今町(南二丁目)元は円満院の鎮守であったが、明治45年(1912年)今町へ譲る。祭祀は普門院の住職が担当する。
 祭神は本地将軍地蔵菩薩及び三宝荒神天満大自在天神である。
 毎年、正月23日に子供の会陽が行われていた。
昭和30年(1955年)ごろまで続いていたが中止になった。
6.中野祇園宮荒神社 中野地区
中野祇園宮荒神神社  どんど祭(正月14日)はお正月の行事でおかざりや古い神札、書初めやお餅などを焼きお払いをして無病息災、家内安全などを祈願する。
 お当夜祭は旧暦の大晦日より旧正月28日にかけて行う。当夜は農村で行われる「お日待」の祭祀のことで、もとは祭祀の中心となる家を当夜(トウヤ)または、当屋と云った。中野地区では祷屋とも書き行事を「オマット」とも呼んだ。
 祇園宮の春祭は午前中お旅所巡りで午後から子供神輿です。毎年5月12日ですが現在は最も近い日曜日に行う。お旅所巡りは神官を迎えて神儀を行った後、お厨子に入れたご神体を保存会の人が持って神官と共にお旅所を巡幸にする。
7.観音院
西大寺観音院  本堂は御本尊である千手観音を安置している。
今の伽藍は文久2年(1862年)柱立式を行い翌年完成したもので、会陽の夜には数千人の裸群が陰陽二本の宝木の争奪戦が行われる。
 二王門は室町時代の天文年間(1532~1555年)に慶秀上人の時に建立。しかし、最近の専門家の調査では江戸末期の元文年間(1736~1741年)との意見もある。門には両金剛(仁王様)がすえられている。この仁王様に願掛けといって大きな藁草履を奉納するのは足を達者にしてもらうため。
 三重塔は延宝6年(1678年)典翁上人の時竣工した。中に大日如来が祀ってある。
 西大寺観音院のホームページ
8.清水橋
清水橋  現在の橋は3代目。
 2代目の時、昭和31年4月(1956年)巡業に来ていた相撲とりが渡った後、落ちたと言われる。
 下の流れは新堀川(秋芳川分流)。現在の橋は昭和53年2月竣工。
8.清水橋 当画面のトップへ
琴松庵(猫庵)  創始は室町時代の永享2年(1430年)とあるが、幕末のあるころの庵主は求女と呼ぶ美人で、法名を妙指といい、明治11年(1878年)に亡くなった。
 猫に由縁ある数奇な生涯を送った人である。
数奇の運命にほんろうされて、「行」の途中に度々「月」と呼ぶ雄の三毛猫に生命を助けられた。
 最後に求女の父と知り合いだった義侠心に富む米問屋藤屋の旦那に救われ、その屋敷内に庵を建ててもらい、ここに求女は尼となって、愛猫と共にその生涯を送ったという。
C. えのき 北之町地区 地図
えのき
 このあたりは旧北之町(中3丁目)といい江戸時代には吉井川の本堤で西大寺の港として栄え、問屋の倉が吉井川の河岸に立てならび通称「浜倉」と言った。
 この「えのき」は高瀬舟の目標となり舟をつなぐのに利用された。
D.水道栓 北之町地区
水道栓

 上水道が開通した当時のもの。右側は共同柱で、近隣の数件で利用し、ねじで栓を開閉した。
 大正12年(1923年)4月町役場で上水道通水式を挙行した日には、商店街は数日間記念の大売出しをし、小学生は上水道の歌を歌って旗行列をした。
E. 中福町商店街 中福町地区
中福町商店街

 中福町の商店の並び。
 1階の店舗のところは、改造されているが、2階は、しっくいや格子窓に昔の姿をしのぶことができる。
F. 地蔵坂の道標
地蔵坂の道標

 この道標はもと道を隔てた東の町角にあり、地蔵堂も同じ場所にあったが、火災があり、現在のところに地蔵堂ともども移された。
 元の位置にあったときは、左へ行けば児島の由伽大権現・讃岐の金毘羅大権現への参詣船の発着する金岡の港へ行く道、右へ行けば観音院の門前町であるからそれでよかった。
G. 芭蕉の句碑 当画面のトップへ
芭蕉の句碑

  「さまざまの事おもひ出す桜かな」

 貞享5年(1688年)春に芭蕉翁が伊賀上野市の花見に招かれた時、作ったもの。
 後に、当地の俳人が翁を慕って建てたものであろう。現在、普門院の境内にある。
山口誠孝元西大寺町長の石碑
金山にある西大寺鉄道建設の功労者、山口誠孝 西大寺町長の石碑である。
 日露戦争勝利に国中が湧く中、やっと西大寺に鉄道建設の機運が生まれた。当時の山口誠孝西大寺町長が中心となり、鉄道建設の必要性を呼びかけた。 
これに応じて、両備グループの創業者松田与三郎翁らが中心となり、西大寺から山陽鉄道に連結する鉄道の建設に奔走した。創業者松田与三郎翁らの奔走から4年後、創立総会が西大寺観音院で開かれた。
西大寺鉄道は創立の翌年、1911
(明治44)年の西大寺観音〜長岡間(7.2km)
で部分開業し、全線開通は1915 年(大正4年)11 月4日である。
西大寺〜後楽園の11.5kmで岡山と西大寺が結ばれた。

山口誠孝元西大寺町長の石碑の場所 当画面のトップへ