第8章 百間川について



 百間川は、ご存じのように17世紀末(1686年頃)旭川の放水路として作られた人工の川であります。

 1597年(慶長2年)岡山城は、宇喜多秀家によって大改築され、ほぼ現在の城の姿となりました。城を巻き込むように流れる旭川は、実は元々その場所を流れてはおりませんでした。当時、旭川は牧石から中原を下って当地中島と向かいの竹田の間を通り、東川原を左岸に西川原を右岸として原尾島へと下り、国富周辺で右折して古京・小橋あたりで現河道に流れ込んでいました。(但し、流路は一本だけではなく、幾筋かに分かれていました。)

 城の改築にあたり、秀家は旭川を外濠代わりにしようと、強引に現河道へと流路を付け替えたのであります。所が、これが災いして岡山の城下町は、度々水害に見舞われるようになってしまいました。

 江戸時代になって、池田家3代藩主光政はこれを憂い、熊沢蕃山の建策に基づいて元の河道を利用して放水路を作ることを決意し、津田永忠に命じて出来上がったのが、今回お話する百間川であります。

 この川には、上流部に3つの荒手と河口部に巨大な水門が設けられています。荒手というのは、越流堤のことで、最上流の旭川との分岐点に築かれた荒手を『一の荒手』と言い、本流の水位が荒手の高さに達すると越流して百間川へ流れ込むようになっています。以下、竹田中島橋の直下に『二の荒手』、原尾島と藤原西町の間に『三の荒手』が築かれ、下のイラストのようになっていました。

 残念なことに、『一の荒手』は、平成10年の水害で大半が流失し、『二の荒手』もその時被害を受けて一部が決壊してしまいました。また、『三の荒手については、いつの頃からか、その痕跡すら見当たらなくなっているのが現状であります。

 三つの荒手は、百間川に流れ込む水量を調節したり、流れの勢いを柔らげたり、土砂を下流まで流さないようにせき止めたりする目的を持っていました。また、『二の荒手』の両側には水流の方向を調節する目的で、導流堤という石組みの堤が築かれ、その一部は現在も残っています。この導流堤の左右の内側の間隔が、ちょうど百間(約180m)であったことから、この川を百間川と呼ぶようになりました。

 それにしても、百間川は大変興味深い川です。全長は、わずか12.9kmですが、前述のような遺構を始め、縄文晩期から室町時代に至るさまざまな遺跡が埋まっているし、上流・中流・下流各々全く違った景色があり、それがまた四季折々に姿を変えて、見る人を楽しませてくれます。また、この川にはひしモドキ・ミズアオイ等希少種を含め、数多くの動植物が生息していて、知れば知るほど興味の尽きない川であります。



荒手のイメージ図
荒手のイメージ図