ホーム > 人物探訪 > 第5回  相撲界出身  :  芝田  錦吾さん

第5回  相撲界出身  :  芝田  錦吾さん (2003/5/28)

元出羽海部屋の力士“常の海“で、昭40年に「人生土俵」でデビューした東芝専属歌手の芝田錦吾さんがわが町内に住んでいる。

芝田さんは14才の春、縁あって郷土出身の“常の花”のいた出羽海部屋へ弟子入りした。

当初はシコ名を“烏城“といったが、序の口三段目のときに親方常の花の“常”と出羽海の“海”をもらって“常の海”と改名、つらくきびしい修行を重ね、18才のときには幕下に昇進した。 ときに横綱栃錦、千代の山の全盛時代のころだ。

二十歳になったとき、常の海関に人生の一大転機を余儀なくされるできごとが彼の身に起こった。稽古中に土俵下に転落し、膝下を複雑骨折したのだ。

そのけがで常の海は角界引退を決意、大阪の浪曲師吉田一若師の家で無念の断髪式が行われた

が、相撲甚句などを歌っていた芝田さんはそのまま一若師に弟子入りして大阪暮らし。2年間はアパートに住んでがんばったものの、幼少年期から始めなければものにならない浪曲の道を断念、もともと好きだった歌謡曲をと上京し、作曲家の船村徹先生の門を叩いてみごと弟子入りを果たした。

売れる前の北島三郎と三畳の間で共同生活し、渋谷あたりを流して歩いたのもそのころで、「サブはいまも変わらぬ兄弟分だ」という。

昭和40年(27才)、オーディションに合格して東芝の専属歌手となり、東芝の“芝”、栃錦の“錦”をもらって歌手「芝田錦吾」は誕生した。

「人生土俵」でデビューし、翌年に歌った「岡山城」は実売10万枚を越える大ヒットとなった。

芝田さんが、岡山市柳町に割烹料理店“常の海“を開店したのが昭和四十九年十月、自慢の料理はもちろんちゃんこ鍋で、他では真似のできない「出羽海部屋秘伝の味」が自慢だ。

今でも各地のイベントで美声と名調子を披露するが、最近ちょっと体調を崩し、昭和四十七年に結婚した恋女房の智子夫人と二人で、「歌謡教室」の看板のある自宅で静かに療養の日々を送っているがステージに復帰する日も近い。

[「オカニチ」(1980年2月8日)の「シリーズ“あの人はいま・・・”」から一部転載]

(文:小野田、写真:本人提供)

 

 

このページトップへ