三野臣


 日本書紀によると吉備津彦命の後裔であり
応神天皇の皇妃・兄媛(えひめ)の兄である
御友別命(みともわけのみこと)の
末子・弟彦が三野国を分与されて三野臣の祖
となったとされる。

 三野臣は神宮寺古墳の主

 神宮寺古墳は平地に土盛りをして山を築造したものでは
最大級で従事した人の数も期間も大したものです。
 こうした人手を使うことが出来るのは随分な権力者であって、
かなり広範囲に渡って力を振るった貴人であると思われる。
 伝説によれば、崇神天皇の時、吉備津彦命が四道将軍として、
山陽道に派遣され、その子孫は吉備医として繁栄し、
川島/上道/三野など7つの県の県主を同族で占めていたと
言われます。


 後の雄略天皇崩御の
479年、後継を巡る星川皇子の変に
よって吉備氏族に反乱が起こり、鎮圧後は吉備氏の権力は
消滅したという。

 三野臣氏は備前一宮である吉備津神社を奉斎したことから
後に社家・大森氏(後に大守氏に改姓)を輩出しているが、
早くに武家に転じたとされる。
 系図によると三野臣の後裔とするもの、
田使姓難波氏の一族、藤原支流、
など諸説があるという。