座主川用水



平成15年3月御南学区水辺の集い協議会は、岡山市の支援を得て私たちの故郷・御南2をディスケット版で刊行した。この中に現在の座主川用水の様子を取り上げている。今回ニューストピックスでも紹介したように歴史を絡めて少し座主川についての知見をまとめた。そこで、二つをまとめて、学区の見所の記事として紹介することとした。

先ずディスケットで書いた文章を多少手を入れてお示しする。
久米・今保地区の用水
この地区には、昨年紹介したように高梁川・旭川の両方の河川から農業用水(生活用水でもあった。)を導入している。旭川からの用水を座主川用水と呼び、笹ケ瀬川のみず底をサイホンを使って通してある。三野公園下からわが地域まで写真で追いかけてみる事とした。蛇足ながら、旭川は県都岡山市の中を流れる清流で県内3大河川の一つである。夏にはアユつりをする人もいるぐらい綺麗な水で岡山市民の誇りでもある。

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旭川からの導入水路

三野の六丁樋から何時頃座主川用水が取り入れられたかははっきりしないが、サイホン形式で川を渡る技術が江戸初期の池田藩によって開発されたと考えるのが穏当ではないかと思う。    


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三野水門

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三野浄水場付近

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岡山大学構内

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津島西坂 津島大橋付近

この辺りまでは水量の少ない冬季でも比較的きれいな水にみえる。
夏になると水量も増して、もっと下流まで綺麗な水となる。


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万成加圧ポンプ場近く
昔は、この付近で笹ケ瀬川に入っていた。

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矢坂大橋西手笹ケ瀬川の底のサイホン取入れ口(右手)左手の本流はやがて笹ケ瀬川に合流する。


水量は少なく生活廃水も多くなり、濁り水になっている。
下水道が早く完成し、綺麗な流れになって欲しい。

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笹ケ瀬川の底を配管しているのが土手から見える。
矢坂デォデォの裏、
川底の加工サイホンが通っているラインを確認できた。
反対側の土手の向うに噴出し口があるはずである。
今秋サイホンの改修が予定されているとのこと。    

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サイホン噴出し口(昭和46年改修
サイホンは直径1.5mのコンクリート製らしい。

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 一宮浄化センター近くのゴルフ練習場横に中川・砂川を渡るもう一つのサイホンがあ

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ベターライフ御南(旧白石幼稚園)の横を流れる五斗代川用水
(馬屋川用水 御斗代川)
この辺りでは色々の名前で呼ばれている

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 座主川用水の最終点
今保水門内側
水の少ない時はユグエのあとが見られる。
この外側が
今保港の跡
此処を最後に用水は笹ケ瀬川に入る

今回は座主川用水を取上げたが、この地区には高梁川・中川からの用水も導入されている。現在、児島湖の環境改善のため冬季も清水導入事業が行われているが、この地区の用水についても、農業面からのみの用水管理でなく洪水対策・水環境の整備等広く、多面的な水管理が行われても良いではと何時も考えている。岡山市や、岡山県も巻き込んだ地域の取り組みとして考えるというのはどうであろうか。識者のご意見を伺いたい。

つい先だって、ニューストピックスに座主川用水について新しい知見を示した、それを少しまとめて以下に示したい。

 座主川の名称の由来としては、金山寺が天台宗であったため、天台座主に因んだ命名であるということらしい。ウエブサイトで金山寺の歴史を見ると、康治元年(1142年)に現在地に再建されており、1169年に至り栄西が護摩堂などを建て、宗派も天台宗になったとある。そして文亀元年(1501年)松田氏による改修に抵抗して、焼き払われたとある。天台宗と関連があるとすればこの頃(1169年頃から1501年頃まで)のことと思われる。或いは、宇喜多や池田が支配するようになって、備前国の寺社総監・備前国天台宗総管となっている。1837年〜1842年に書かれた東備郡村志には。その名前が出ないが、江戸時代前後には、座主川と呼ばれていたのかもしれない 
 前述のように、県立図書館二階に郷土史のコーナーがある。そこに“御野郡今昔物語”著者丸山赳志郎という小冊子がある(1979年出版)。 その中に座主川用水は、西坂に至り篠ヶ瀬川には入るとあり、更に、座主川用水は、三野川或いは、小野川と呼ばれていたとある。次のページには、東備郡村志より写したと書いてある地図がありその中に小生川とも記述している。この事は、吉備の穴海と呼ばれていた頃、旭川が笹ケ瀬川へ流れ込む水路があったことを思わせ、その水路を利用して、条里制の田畑が作られていたことをも推定される。
 平成21423日 改めて県立図書館に行き、東備郡村志(出版年 1837年〜1842年の推定)を読んだ。三野川については以下の記述があった。【三野より大河を分ち整流して西坂に至りて篠ケ瀬川に入る。】この時代(江戸後期)座主川でなく三野川と言っている。座主川とも言われていたのだろうか。又、笹ケ瀬川については、【水源は、津高郡菅野村の山渓よりで吉宗横井中原を経て御野津高の界を流れ西坂村に至りて三野川に合い南して海に入長二里余】とある。しかし、小野川という言葉は出てこない。又、東備郡村志より写したとされる古地図は有ったが、絵図に川の名前は書いてなく、今昔物語を書いた丸山氏の書き入れたものであったと考える。西坂より約二里(8Km)で今保の辺りに至る。この天保年間には、まだサイホンができていなかったと考えるべきなのか。

画像:備前国絵図

この地図は、県立図書館が所蔵している、備前国絵図であり、1687年〜1961年ごろに作成されたものと推定されている。私の技術では、パソコン上に取り込むことが出来なかったので、部分的にデシカメで写して、取り込んでいる。県立図書館のご許可は得ている。
これらの絵図には、備中側は、他国であり書き込んでない。これを見ると、旭川より、笹ケ瀬川にひと筋の川が流れ込んでいる。又別に項を改めて、野殿や今保について触れる予定であるが、野殿は、島になっているし、今保は、この当時、海岸であったことがわかる。
 このほかにも1603年、1701年、1765年、1852年頃の絵図が残っていてこれらの絵図を眺めていると色々のことがわかったり想像できて楽しい。

           

 現在笹ケ瀬川は、万成の外れ(西坂)で、対岸へサイホンで渡っているものと、矢坂の分木でサイホンで対岸に渡り、更に、みのるゴルフガーデンの北側を対岸に渡るサイホンがある。この2つのサイホンも、出来上がった時期は、異なるのだろうか。前者は、大野村史(1956年)に載り、後者は、同誌によると、笹ケ瀬川に流れ込むとある。しかし現状は、矢坂にもサイホンがある。但し、矢坂の分木は、3っあり、野殿方面への取水口 サイホンへのもの 笹ケ瀬川への放水路であり、サイホンに触れていないだけの可能性が高い。サイホンは、2007年ごろ改修されているがその前のものもコンクリート製であったとの事で、最初のものは、木製であったように聞いた。それらから考えると3っのサイホンは略々同時期に作られたのではあるまいか。
 先に示した、備前国絵図を見ると、今保から南は、海であり、座主川用水は、笹ヶ瀬の辺り(西坂か)で、笹ケ瀬川に合流している。そして、慶長3年の国絵図でも見られるように海岸線が今保にあったことがわかる。大安寺流記資材帳(天平19=747)には、花尻、久米、今保や、北長瀬、西長瀬、田中あたりは、海であったと推定できる記述があるから、850年ほどの間に干拓が随分進んだことを示している。
 これらの絵図が現在私が見た一番古いものであるが、過日友達と話していたら、太閤検地の記録がないのかという話が出た。是非一度見てみたいと思う。

 座主川(或いは小野川)が、笹ケ瀬川に合流する地点を西坂としているが、現在笹ケ瀬川は、天井川であり浸水対策設備としての万成揚水ポンプ場がある。これは、この200年ほどの間に土砂の沈積があったことを示している。現在サイホンがある場所の近くに堰と用水があるかどうか調べたい。笹ケ瀬川から水を取り入れていた場所があるはずだ  

       文責 佐藤芳範

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