子ども牧石風土記(昭和50年10月19日発行)の<宮本>によると、高瀬舟で賑わった町である。
「今の合同用水の二の樋のあたりに、むかし30軒ぐらいの店屋が並んで賑わっていた。 車屋(人力車)が一番多く 餅屋・宿屋・鍛冶屋・呉服屋・質屋と たいそう活気のある町であった。
ここは 牟佐からの渡し場であったが、また旭川を下る客を乗せる高瀬舟が終点とした。 荷舟は地蔵川から岡山まで下って行った。
高瀬舟は 一日に何便となくついた。 客船から降りた人々で 足の強い人は歩いたが、足の弱い人は人力車に乗って岡山へ行った。
ところで明治26年、たいへんな洪水があった。 10月のことである。 大雨で旭川の水があふれ、この旭川べりの町を ことごとく流してしまった。
その後も家々の土台石は残っていたが、旭川の改修でそれも無くなった。 今ではあとかたも わからない。 大水で消えてしまった町である。」 と 山本寿義さんのお話が載っています。
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