< 第 22 回 >  岡山市宮本地区の風土記(2)     平成18年11月1日
 記  :  津川 稔男


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 1. 旭川(大川、おおかわ)、高瀬舟、筏(いかだ)で 賑わった地区


『牟佐の渡し』と高瀬舟のついた『かご井手』付近
『牟佐の渡し』と 高瀬舟が着いた『かご井手』の付近。
宮本側の堤防付近は「店屋が並んで賑わっていた」所と思われる。
対岸の牟佐側は「渡し場」と言う地名です。


子ども牧石風土記(昭和50年10月19日発行)の<宮本>によると、高瀬舟で賑わった町である。

 「今の合同用水の二の樋のあたりに、むかし30軒ぐらいの店屋が並んで賑わっていた。 車屋(人力車)が一番多く 餅屋・宿屋・鍛冶屋・呉服屋・質屋と たいそう活気のある町であった。

ここは 牟佐からの渡し場であったが、また旭川を下る客を乗せる高瀬舟が終点とした。 荷舟は地蔵川から岡山まで下って行った。


高瀬舟は 一日に何便となくついた。 客船から降りた人々で 足の強い人は歩いたが、足の弱い人は人力車に乗って岡山へ行った。


ところで明治26年、たいへんな洪水があった。 10月のことである。 大雨で旭川の水があふれ、この旭川べりの町を ことごとく流してしまった。


その後も家々の土台石は残っていたが、旭川の改修でそれも無くなった。 今ではあとかたも わからない。 大水で消えてしまった町である。」
 と 山本寿義さんのお話が載っています。



 2.旭 川

 「牧石村誌」(昭和6年発行)によると 旭川は 「この川は古へ簸川、三野川と称し、西大川又は単に大川と称す」と記されております。
また備陽記には「御野川、朝日川とも言うとあり」、旭川と呼ばれるようになったのは明治以降です。
私の小学生時代(昭和15年頃まで)には 大川(おおかわ)と呼んでいました。

また二の樋のあたりとは、現在の畑田用水と合同用水を分離している『玉柏樋門』の付近から、新大原橋の下で県道から分かれて宮本へ入る市道が合同用水を渡る橋の付近を言います。


この大川は 第2次大戦後まで、牧石より上流の地区にとっては『灌漑飲料全くこの川に仰ぐ。 河中多く香魚を産し、味わい美にして食膳の珍とすべし。』と「御津郡誌」にあるとおり、日々の生活に欠かせない大切な川でした。


高瀬舟の模型

真庭市 勝山郷土資料館に展示されている
高瀬舟の模型



 3.高 瀬 舟

高瀬舟の説明板

真庭市 勝山郷土資料館に展示されている
高瀬舟の説明板


江戸時代から明治までの高瀬舟は、写真の説明板によると 現在使われている高瀬舟より長さ、幅、深さとも2倍くらい大きく、中央に帆を張り、下りは川の流れに乗れますが、上りは荷を軽くして2〜3艘が連なり、川岸を這うようにして 船子たちが綱を曳いて上っていました。

積荷は 上流からは乗客をはじめ、年貢米、鉄、薪炭、大豆、タバコ、杉原皮等を、下流からは塩、水産物、魚肥等が運ばれました。
勝山、久世、落合、福渡、金川等の 川湊から岡山城下の京橋まで 往来し、合わせると360艘あった記述もあり、舟運が盛んであったことがうかがわれます。


上下する船の積荷を監視するため、上流には福渡に、下流には平瀬に備前藩の「船番所」がありましたが 天明6年(1786)牟佐に移転しています。




 4.木材 や 竹の筏(いかだ)
高瀬舟と共に、上流地域からの木材、竹の輸送も川が利用されており、川筋まで集めた木材や竹は、筏に組み筏師が先頭で舵を取り、相生橋付近まで運んでいました。




 5.高瀬舟や筏の時代
江戸時代より明治まで盛んに往来した高瀬舟や筏も、明治31年(1898)の津山線開通、更に大正12年(1923)の姫新線の一部開通により、旭川を利用した水運は途絶えました。
しかし、木材や竹の筏は まだ昭和10年頃(1935)私の子供時代に 土手や河原に遊びに行くと 時々見かけていました。
勝山町に現存する高瀬舟の発着場所跡

真庭市 勝山町に現存する
高瀬舟の発着場跡



 6.牧石風土記の高瀬舟


昭和5年頃より計画された「旭川改修ニ伴ウ用水関係日誌」

昭和5年 「旭川改修ニ伴ウ用水関係日誌」












@「客を乗せた高瀬舟が宮本を終点とした。」
A「荷舟は地蔵川から岡山まで下って行った。」
  との話については資料を探していますが、大正8年木橋の大原橋が下流に架かるまで『牟佐の渡し』は、岡山城下と美作東部をつなぐ倉敷往来と呼ばれた道路の要衝であった。
その岡山側にあった宮本が、荷舟が岡山まで下っていたのに対して、客を乗せた高瀬舟の終点になったのは、上流からの日程、乗客の数や船賃に、上りの 曳き舟の作業も大変だったと思われますし、宮本側の態勢も それなりに出来ていたのでしょう。
当時の人は 岡山城下まで約10` 2時間を歩くことを苦にしなかったのでしょう。

明治時代になって岡山にも人力車が入り、宮本付近の人達も 岡山まで人力車を曳いてお客を運んでいたと言う話を聞いています。

荷舟は 地蔵川から岡山まで下っていたことについて、上流の『管掛の井手』や新大原橋上流の『かご井手』には 牟佐側に船通しがあり、大原が玉柏となっていますように、旭川は牟佐と大原の間を本流として現在の地蔵川を経ていたようです。

明治25年・26年(1893年)と続いた大洪水等により、本流も移動したとも思われますが、 昭和5年(1930年)頃より計画された「旭川改修ニ伴ウ用水関係日誌」によりますと、地蔵川経由の方が「本流」になっており、現在の流れの方に「本流ニ変更セントス」と記入されていますので、明治時代の荷舟は 地蔵川(当時は旭川)を経て 岡山まで下っていたのでしょう。




  参考文書
中国地方の古地理に関する調査報告書 国土交通省 中国地方整備局
地域社会と河川の歴史 中国地方建設局
岡山の交通   岡山文庫47 日本文教出版株式会社
旭川       岡山文庫67 日本文教出版株式会社
岡山県大百科事典 山陽新聞社
岡山県御津郡誌      大正12年 上興院新後住職所蔵
牧石村誌          昭和6年 岡山市立中央図書館
子ども牧石風土記 牧石小学校百周年記念事業委員会
高瀬舟の写真 真庭市 勝山郷土資料館で撮影
各地の旭川に関する資料をお持ちの方、ご存知の方はお教え下さい。
資料の収集に植野宮本町内会長にご尽力頂きました。

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