路傍の文化財
修堤碑

 吉備西幼稚園の園内にある足守川修堤記念碑は、明治19年の大水害のあとに建てた。当初は足守川堰堤にあったが、昭和46年の河川拡幅工事に伴って、現在地に移転された。碑は当時の事を細かく伝えている。

明治十九年六月十二日足守河修堤功了河發源於賀陽郡間倉村
徑賀陽都宇両郡南注入海綿宜十里許其水平時僅及膝霖潦一到
氾濫 渤流亡蘆舎荒壊田園其惨状有不可言者盖堤防卑弱之所
致也郡長橋本貞固赴任後遭此災者再因歎日本郡膏野沃土民物
殷阜濁洪水之暴為深患不可不為之處也奮然起修堤之議而此年
民憊苦慮百計終謀之賀陽窪屋二郡長及各村戸長請官開設都宇
廿二村賀陽七村窪屋二村聯合会議之議即決矣乃都宇郡衙管理
其工事築石搬土修治堅牢之務林奔蔽提者悉芟除之増修總五里
一望 廓頓改旧觀焉用工三閲月費金壱萬四千円除地方費五千
円之外皆係村費負担也於是平嚮之卑弱変為牢固生命財産頼以
保安焉郡長奮励々氣人民賛翼之刀相須?到此其功也偉兵郡人
慮其事之久委堙滅将樹石録之来請余銘余亦受任地方治水之功
?如此豈不欣抃乎因不辞銘之銘日
平時掲癘暴漲襄邱提之不固民之所憂慮此危険旧提新修芳澤長
潤河水悠々

岡山縣知事正五位勲四等千阪高雅毫
仝  書記官從六位  高津輝撰文
仝  属判任六等官  多田省一書
           倉敷 藤田市太郎調之

道標

撫川1278にある道標

「吉備温故秘録」によると、鴨方往来から庭瀬より南へ金毘羅往来が通っていると書かれている。(備中領主戸川の時代)

幅26cm×奥行17cm×地上高さ100cm

右 毘沙門 道
左 金比羅 ゆが 道