歴     史 幡多学区電子町内会

明 禅 寺 合 戦
 百間川から操山の明禅寺城跡を望む
 新庄山城(岡山市竹原)にいた宇喜多直家は、沼城(岡山市沼)を奪い、さらに備前を支配することを目論んでいた。
そして、備中松山城主 三村元親が攻めてくる情報を得て、永禄9年(1566)に操山に昔あった明禅寺という廃寺の跡に出城を築いた。
翌10年の春、三村勢は明禅寺城を急襲して乗っ取ったが、さらに宍甘鼻から様子を伺っていた宇喜多直家は奪い返すべく戦いを挑んだ。自分の勢力圏である操山と竜の口山との間の備前平野に引き寄せ勝敗を決する合戦に出た。
この戦いは、三村勢2万に対して宇喜多勢5千の兵であったが、宇喜多勢は地の利のあるうえ鉄砲を使って三村勢を打ち破った。そして三村元親は残った4千の兵を連れて高梁に舞い戻った。この合戦で両者の勢力は逆転し、直家は岡山城(石山)を修築して、天正元年(1573)沼城から移った。
これが後にいう明禅寺合戦・明禅寺崩れであり、県下では最大規模の合戦であった。

                                                文:「幡多2000年の歩み」より引用
 明禅寺城跡からの備前平野  明禅寺城跡
  この時戦場となった備前平野、今の高島・幡多・長岡の地区は、おびただしい死者の数であった。その死者を直家が手厚く埋葬したといわれている首塚がいまでも各地にあり、歯の神さま、イボ神さま、足神さまとして地元の人達に祭られている。しかし、今日の団地造成・住宅建設でその姿は少なくなっており、苔むした数少ない首塚が当時の大事件を寂しく語っているようだ。
 中島にある首塚  今在家にある首塚
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