歴     史 幡多学区電子町内会

百間川の建設
   空から見た百間川

 自然の災害から人間の生命と財産を守るため、江戸時代に知恵と力によって百間川が建設された。
 承応三年(1654)7月18日に岡山平野に暴風が襲い、翌19日も大雨は降り続いた。その結果、岡山城下は一面の泥海と化し、3日間濁流は引かなかった。その後も、延宝、貞享、元禄と4・5年おきに旭川流域は氾濫により水害に悩まされた。
 この「承応三年水害」は、藩主池田光政に大きな衝撃を与え、これを契機に熊沢番山が藩主から名を受け立案し、津田永忠を中心としたプロジェクトが、寛文九年(1669)から、貞享三年(1686)の17年間にかけて岡山城下を水害から守るための安全弁として旭川の放水路を建設した。
 そして文化十一年(1814)、わが国初の流量計算により改修補強工事が行なわれ、この時幅員を100間にしたことから“百間川”と呼ばれるようになった。
 現在の百間川は、昭和50年から平成9年にかけて堤防の付替工事が行なわれ、今は川幅230m(約128間)に拡幅されている。
は、
                                         文:「幡多2000年の歩み」より引用

1.岡山市中島にある“一の荒手”

 “一の荒手”は、旭川に沿って平行に造られている。岡山城下を水害から守るため、旭川が一定量増水すると自然に百間川に流水するように設計されているが、荒手の高さについては、岡山城下と百間川流域の地域において利害関係から争いが絶えなかった。
2.岡山市竹田の“二の荒手”

 現在の竹田中島橋の下手(しもて)に、今も“二の荒手”が草に蓋われているが残っている。
“二の荒手”は、百間川に垂直に造られ“一の荒手”を越してきた激流を制御するために設けられている。そして、“二の荒手”が百間あつたことから“百間川”と呼ばれている。
また、“三の荒手”が原尾島にあって、更に洪水を抑えていたが、今は形が残っていない。
3.百間川から出て来る軽便

 当時軽便鉄道は、百間川の中を走っていた。
放流された時には、通行が出来ないと同時に土手は「切り通し」になっており、切り通しに板と土嚢で仕切られ洪水の流出を防いでいた。写真からも板をはめる溝が見られる。
また、百間川の中では、田畑が耕作されていたが、当然洪水の年は収穫がなかったであろう。
        (写真提供は、両備バス竃{社)
4.直近の百間川の増水

 最近では、平成18年7月18日の大雨で旭川が増水し、百間川に放水したが、水量は堤防の中の段までしか達しなかった。また、百間川に12本の橋が架かっていることから、市民の生活には影響が出なかった。
5.現在の百間川

 普段は、とても静かな百間川で、多くの珍しい生物や、植物を育んでいる。また、土手の堤はあらゆるスポーツや散歩などを楽しめるように、そして市民の憩いの場として整備されている。
   
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