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橋本町の由来
資料は『岡山市の地名』より引用しました
 『京橋御門について』と『京橋渡り初めについて』は小串連合町内会様のご厚意により提供して頂きました『わがふるさと小串』より引用させて頂きました。

橋本町(現、京橋町)由来その六 

京橋御門
小串にある京橋御門(赤木家)
 京橋は岡山城下の、のろし場でもあった。陸路でも海路でも発信地であり、着信地でもあった(撮要録)。現在小串にある民家の門が、もと京橋の門と伝えられている。民家の門としては不釣合いな大きなものである。

 明治四年(1871)旧城下町が五大区に編成されたとき、第一区四番小区となった。橋本町は明治に入っても船着町と並んで交通の要衛であった。同十五年には海運会社汽衛社が設立され、三〇石の客船二隻をつくって運航している(山陽新報)。しかし、人や物資の輸送の主役が海運から鉄道に移ると、物流センター的な町の性格はしだいに薄れていった。

道路元票
道路元票
迷い子しるべ
迷い子しるべ

 明治の遺物として、京橋西詰めに石の岡山県里程元標と迷子しるべが残っている。前者は同九年に立てられ、同四十年に立て替えられた。県の道路の起点である。後者は同二十五年十一月立てられた。迷子しるべは岡山市制施行後の初の社会事業で、探す人、見つけた人の連絡場所であった。

 


 『岡山市の地名』より 原文のまま
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