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橋本町の由来
資料は『岡山市の地名』より引用しました
 『京橋御門について』と『京橋渡り初めについて』は小串連合町内会様のご厚意により提供して頂きました『わがふるさと小串』より引用させて頂きました。






橋本町(現、京橋町)由来その五

 
京橋渡り初めの図
京橋渡り初めの図(岡山市立中央図書館所蔵)
京橋の江戸期の長さは、六八間(約一二四メートル)幅四間(約七.三メートル)であった。「国富家文書」によると延宝元年(1673)から幕末までに六回かけ替えられた。最後の弘化四年(1847)のきらびやかな渡りぞめの模様が版画に残されており、市中央図書館などにある。近代のかけ替えの最初は明治一八年(1885)である。四月に完成、二十三日に県令千坂高雅や岡山区長(現代の市長)手代木勝任らが渡りぞめ式を行った(山陽新聞七十五年史)。

京橋西詰めにある京橋渡り初めの図
京橋西詰めにある京橋渡り初めの図
 「評定留」(池田家文庫)宝永四年(1707)八月十九日の項に、藩の評定の席で町奉行が「京橋の上で夕涼みをする町人が多く、見苦しいので、番人をつけて追い払わせていたが、秋風も立って人が少なくなった。もう番人をやめてもよろしいでしょうか」と伺いを立てたのに対して、家老が「そうせい」といった記録がある。藩は城下町郭内の入り口ともいうべき京橋を、大藩の面目にかけてきれいにしておきたかった。干し物を禁止し商売も厳しく制限した。橋守をおいて毎日欄干までそうじをさせ、朝六時ごろには橋上に寝ているものを追い払った。
 

 『岡山市の地名』より 原文のまま
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