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橋本町の由来
資料は『岡山市の地名』より引用しました
 『京橋御門について』と『京橋渡り初めについて』は小串連合町内会様のご厚意により提供して頂きました『わがふるさと小串』より引用させて頂きました。






橋本町(現、京橋町)由来その三

 江戸初期から寛政年間まで、総年寄を勤めていた淀屋佐々木家は、ここに質商などの店を構えていた。同家は播磨(現、兵庫県)出身で、藩主池田家について岡山に来た商人である。

 総年寄の中心的な家筋であった。初代三郎兵衛から五代与三太夫まで総年寄で、江戸時代前期の藩発行の銀札(紙幣)の札元でもあった。同家は享和元年(1801)破産、上道郡倉田村に移った。五代与三太夫(1732〜98)は松後と号し、蕉風美濃派の六世を継いだ著名な俳人であった。七代三郎左衛門(1778〜1853)は、円山応挙・応瑞父子に学んだ画人で号は応陽・応祥などといった。

 江戸時代中後期の岡山一の豪商・塩屋武田家一族も住んでいた。諸物問屋・両替商などを営み、藩の用達を勤めた。用達は藩に金を融資する役である。安永年間(1772〜81)の武田本家善次郎の財力は、銀千数百貫目から二〇〇〇貫目とみられている(片山新助『近世岡山町人の研究』)。銀二〇〇〇貫目を金に直すと約三万三〇〇〇両である。寛政元年、藩の札場が破産状態になったとき、大金を融資して危機を救った商人の一人である。二日市町内に五反(約五〇アール)の別邸屋敷地を持っていた(国富家文書)。重臣の下屋敷に匹敵する規模である。同じころの問屋頭・和気屋平次郎もここで諸物問屋を営んでいた。



 『岡山市の地名』より 原文のまま
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