トップへ

橋本町の由来
資料は『岡山市の地名』より引用しました
 『京橋御門について』と『京橋渡り初めについて』は小串連合町内会様のご厚意により提供して頂きました『わがふるさと小串』より引用させて頂きました。

京橋渡り初めについて

 京橋は、一五九三年(文禄二年)児島の豪商那須半入が宇喜多直家の許しを得て現在地の京橋に架け替えられた。長さ一二五メートル幅七.三メートル、六十九本の柱を使用した木橋であった。

 大洪水のために、たびたび流され、架け替えや修繕がなされた。一八四七年(弘化四年)の架け替えのあとのきらびやかな渡り初めの模様が版画に残されている。「備前岡山京橋御渡り初図」(岡山市立中央図書館蔵)原図と拡大図。

京橋渡り初めの図(岡山市立中央図書館所蔵)
京橋渡り初めの図(岡山市立中央図書館所蔵。クリックしてください。大きな画像になります。)

 この渡り初めに描かれている、仙吉以下九人は、小串吉田良一の先祖にあたり、吉田家に現存する古文書はたいせつに保存されている。原文「御米参拾俵 右者京橋御掛替 繁盛之者 往来渡初 被仰付 児島郡小串村千吉江為御祝儀 被遺候」とあり、御米参拾俵。 右の者京橋御掛け替にあたり、繁盛した者 往来渡り初めを仰せつけられる。 児島郡小串村 千吉へ御祝儀のため遺わし候。ということが記録されている。

 吉田家は、熊野権現より熊野吉田の肩書のある熊野別当族の家柄(吉田家古文書による)であったこと。また父仙吉母トメともに長寿で子宝に恵まれ、子女八人ともに揃って成人となり、一家十人健康で繁盛した家族であったことから、おめでたい渡り初めの儀式に選ばれたのであろう。壁面に飾られた画の橋上を役人らしい馬上の武士と家来らしい人に先導され橋の中央から父仙吉七十六才を先頭に、母トメ七十一才、倅萬蔵五十才、佐平治四十三才、儀兵衛三十三才、八之助三十一才、娘里恵四十八才、美与四十二才、とみ三十八才、いと三十六才、の順に渡っている。男は袴をつけ一刀を差し、女は前帯に結んだ晴着姿で威儀を正して渡る様子を、河川敷に集まった町民が、息をこらして見上げる姿が色鮮やかに描かれている。後方に見える京橋門は、赤木家の大門であろう。

 百五十年の昔、小串の地からこの晴れ舞台に選ばれたことは、村を挙げての喜びであったと思う。ふるさと小串に残る史実として、京橋の歴史にとどめたいものだ。

小串を考える会発行『わがふるさと 小串』より 原文のまま
トップへ