鷲林庵・ 氏神様生石神社
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 鷲林庵
 「法華を信じない者の施しを受けず、また施さない」
という日蓮宗・不授不授派の教義を護り通して、流罪僧となった日継聖人は、泉州岸和田で生まれ、下総国本覚山妙勝寺で得度したあと、正中山法華経寺末寺の法真院の高僧となり、正法院湛嶺日継と称していました。

 寺社への支配を強めようとした徳川幕府に、法華経寺が屈しようとした際、「教義は曲げられない」と抵抗、このため寺社奉行に訴えられ、寛文2年(1662)流罪となり、備中足守藩(二万五千石)木下家に預けられた。
 流罪の身でありながら、二年後には福崎の地に鷲林庵を開き備前備中地方で人びとに教えを広めるなど深い影響力を与え、貞享4年に66才(1622〜1687)で没しました。
巨大無縫塔別名芋墓
巨大無縫塔

 日継の存命中、鷲林庵裏に建てた高さ2.5メートルもある巨大無縫塔(芋墓のこと)は、私たち地元の日蓮宗・身延山派の22戸が鷲林庵講中をつくり守っています。

 以上は、郷土史家平松律太氏・矢吹寿年氏らが備中国足守藩などに伝わる木下家家譜や吉備郡史などの古文書解読をもとに、地元の民家や寺院に残る文献や絵図、鷲林庵の仏像などを一年がかりで調べ、日継の"実像"の一部を明らかにしました。

調査結果は、昭和63年(1988)11月28日の三百年供養祭で報告されました。












氏神様生石神社

  所在地 門前  氏子  門前・小山・下土田・福崎・高塚・三手
  祭神 応神天皇・神功皇后・玉依姫命ほか七柱の神
 足守駅北東の山に生石神社に鎮座しています。太古、暴風の時、始めて出てきた生石大明神の神石が、子供の健康を守る奇石と仰がれ、またこの地域の地名の起源ともなり、地元のものはもとより歴代の足守藩主の信仰もうけて祀られてきた古宮であります。
  この地へ来た生石中将治親(はるちか)が、宇佐八幡宮を勧請して門前の八幡宮として祀って以来六百年、その間、生石氏は吉備津宮社司代を勤めたこともあり、古鐘を残しています。
  神石については、大正8年に作られた吉備郡神社誌によると、「門前村八幡神社の傍に大きな柱の如き石あり、地出る。尺余相伝えて、これは当地の神石にて云々・・・」とあり明治始めの頃、この岩が児島まで続いているというなら一度掘ってみようと足守川の河床まで掘り下げましたが、全く根株が分からないので掘るのを中止して玉垣を作って昔通り祀ったといいます。
  明治の神社統合政策で小山の不動様、高塚の天神様が合併して生石神社として氏子の信仰を集めています。

平成15年9月15日
 専用の水道を設置する工事の際、古い忠魂碑が発掘されましたが、上端の忠の字の部分だけで、それ以外は発見されませんでした。 現在の忠魂碑の裏側に保存しています。