備中高松城水攻史蹟・吉備津彦命と温羅
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高松城水攻め副堤・備中高松城水攻史蹟のはなし
(岡山県立吉備路風土記の丘自然公園)
副堤を示す石塔
 副堤を示す石塔
副堤の観光用案内板
 副堤の観光用案内板

 織田信長の命令を受けた羽柴筑前守秀吉の中国征伐は、天正十年(1582)に三万の軍勢を毛利に向かわせた。これに対し毛利方は、備前と備中の国境ぞいに七つの属城(宮地山、冠山、高松、加茂、日幡、松島、庭瀬)を固めとして、羽柴勢の備中侵入に備えていました。

 秀吉は宮地山城、冠山城を陥落させ、続いて備中高松城の戦いが始まりましたが城主清水宗治の強い抵抗を受け苦戦しました、秀吉は毛利の援軍が来る前に落城させるため、黒田官兵衛の「水攻め」作戦を実施しました。

 高松城は低い平城で、三方を山で囲まれています。梅雨に入る時期で城の廻りに堤防を築いて、足守川の水を引き込み城を水浸しにして孤立させました。

 この堤防(下部幅20m高さ7m延長3km)の始まりが、わが町内福崎にあります、他に下土田から土合橋まで419mの副堤もあります。

  5月19日に堤防が完成して190ヘクタールの一大湖水が出来ました。
 5月21日毛利の援軍毛利輝元一万騎を総大将に、小早川隆景二万騎 、吉川元春一万騎が 西側から包囲しましたが、秀吉は宗治自刃などの講話の三条件をのませ落城させました。

宗治が自刃したのは6月4日で、このとき小舟の中で詠じた辞世は

   浮世をば 今こそ わたれ
    武士(もののふ)の名を 
          高松の 苔に残して


 なお、本能寺の変は6月2日早朝、秀吉が知ったのが3日、明智光秀が討たれたのが13日でした。

備中高松戦国挽歌に足軽として出演した町内会長

備中高松城の地形
 古代の高梁川東分流が退化するまでの足守川は東分流に注流する一支流でありました、この東分流は加茂、惣爪、原古才、板倉方向に流れていました。
 この水路の北側に沿って東西に細長く続く高松の町並みは周辺の水田地帯より、やや高くなっています。そこは元の高梁川東分流の自然堤防と思われるます、また高松城付近の水田地帯は土地が低く冠水しやすい場所であって、その後背湿地にあたると考えられる。
 また高梁川分流の後背湿地に築かれていた高松城は守るに易く攻めるに難しい竪城でありました。

 自然堤防後と足守川の位置を考えれば、水攻めは最も効果的な高松城攻略法であったといえます。秀吉はわずか十数日で長大な堤防を築かせ、足守川の水を引いて水攻めを行ったと伝えられますが、その堤防は高梁川東分流の残していた自然堤防を巧みに利用していたからこそ、短時日で完成し、しかも大きな効果を発揮したといえます。

写真は備中高松戦国挽歌「清水宗治物語」高松城水攻めの場に足軽で出演した町内会長

テレホンカード 製作者 岡山市高松 林 信男様 了承済


吉備津彦命と温羅(うら) のはなし
(桃太郎の鬼退治に同じ)

 吉備津彦命とは、第7代孝霊天皇の皇子、古事記では、比古伊佐勢理昆古命(大吉備津日子命)、日本書紀では、彦五十狭斧彦命(吉備津彦命)と呼ばれる。古事記では、吉備上道臣の祖とあります。
 「吉備津彦命の鬼退治」の伝説は、吉備地方に伝わる最も有名な伝説で「桃太郎の鬼退治」とも一緒になっています。

温羅物語
 温羅は百済の王子で、本国で悪事をはたらいて追放され、空を飛んで総社市黒尾の新山(鬼の城)へやってきた、温羅は身長4.2m、両眼らんらんとして虎狼のごとく、髭、髪は燃えるように赤く、力は絶倫。性格は凶悪でした。
矢と岩がぶつかった所 矢喰神社
    矢喰の宮

 温羅は鬼の城に陣を構えて舟を襲い貢ぎ物を奪ったり、婦女子を略奪したりしていました。

 吉備地方の人々が、温羅の暴状、悪業を垂仁天皇に訴えるので、天皇は吉備津彦命を派遣されました。

 吉備津彦命は吉備の中山(岡山市吉備津)に本陣を構えました。吉備の中山と鬼の城の間は海でした。この間約10km離れており、それを双方弓矢で戦ったが、矢が不思議と空中でかみ合い海に落ちた。その場所が岡山西インターの東側に、矢喰の宮として大きな岩もある社が祀られています。(命の矢と温羅の石がかみ合って落ちた場所で、矢で凹んだ穴がある岩が2〜3箇ある。)

 この状態が続いたある日、命は一度に二本の矢をつがえて射ると、一矢は今までと同じように矢喰の宮の場所に落ちたが、残る一発が温羅の左眼に見事命中した。温羅は流水のごとく血を流しながら鯉に化けて川を下りました、(このとき大量の血を吸ったので血吸川という)。そこで命は鵜になって鯉を捕らえました。(今の矢部橋の所で鯉喰神社として残っている)捕らえられた温羅は、首をはねられ串に刺されて首村(岡山市首部)にさらされた。ところが不思議なことにこの首は何年経っても大声を発しうなりり響いて止まないので犬に喰わしドクロだけになったがまだ吠え続けたので、命は吉備津宮の釜殿に埋めたがその後13年間うなりは止まず近郷に鳴り響いた。ある夜命の夢に温羅の霊が現れて、阿曽媛に釜を炊かせれば、良いことがあれば裕に、禍があれば荒かに鳴ると告げました。

 この温羅の告げた釜の鳴りようにより、吉凶禍福を占う行事は今なお続いており、これを鳴釜神事といいます。

 江戸時代中期の上田秋成の「雨月物語」には「吉備津の釜」という怪奇小説がのっています。
 釜は総社市阿曽(私の家の少し北)の鋳物師が奉納し、奉仕する人は阿曽出身の未婚の女性ということで続いて来ています。

 色字は現存するもの