福崎の歴史と旧生石村の方言
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歴史
 
高塚遺跡から発掘した銅鐸
高塚遺跡から発掘した貨泉
 1989年8月、岡山自動車道建設に伴う高塚遺跡
(岡山市高塚)発掘調査でほぼ完全形で出土した。
 高さ58cm、重さ6.42kg。表面の複雑な流水模様
から、弥生時代後期(1〜3世紀)の製造と推定。
 流水文銅鐸(どうたく)として完成度の高い資料。 
 文化財保護審議会は12年10月20日、
岡山市・高塚遺跡出土の突線流水文銅鐸(どうたく)を
重要文化財に指定するよう大島理森文相に答申した。

  今から八千年前頃には、この福崎あたりまで海になっており「吉備の穴海」といっておりました。

  弥生後期始めのものとして、隣の町内の高塚遺跡では紀元14年から鋳造された銅製の貨幣、「貨泉」が大量25枚も出土しました。
  このことは福崎に住んでいた人々が弥生中期ごろから大陸との交渉があったとともに渡来人の定住も予想されています。

  この付近が高地性集落の要地であり、立田の鼓山(津々見山)、津寺、吉備津(港)、多賀間津(高松)の各港があり、海岸線には大崎、
福崎、赤浜等の集落の地名が今も残っています。

 また、福崎周辺には大化改新後の耕地整理跡や、班田収受の跡も残されています。 奈良、平安時代には賀陽郡生石郷といわれ、国立京都博物館に保管されている足守庄絵図にも生石御庄堺と記されています。
 関ヶ原の合戦以降廃藩置県まで備中足守藩に属し以後足守県、深津県、小田県、岡山県となりました。

  福崎村は、生石村、高松町、岡山市となりました。

岡山市刊 ”岡山の地名” より 福崎村 ふくざき

 東は三手村、南は田中村、北は門前村・下土田村に接していた。村名の由来は、古代この村のあたりが海辺の御崎になっていたことから福崎と名付けられたものと、地元の人は話しています。

 「寛永備中国絵図」には、福崎村、村高438石余、足守藩領。
正保郷帳」と「天保郷帳」には、村高438石2斗と記しています。

 貞享二年(1685)の「備中賀陽郡上房郡寺社改帳」によると戸数43軒(平成14年度末53戸)、人口217人(男106人・女111人)で、村の旦那寺は、三手村眞福寺、上土田村蓮乗寺、和井元本村竜泉寺(今の妙立寺)でした。

 明治8年(1875)門前村など九カ村と合併して生石村となり、同14年分村、同22年長良村を除いて再合併した。
 昭和30年(1955)高松町と合併、同町は同46年、岡山市に編入合併された。

 中国鉄道吉備線が開通し、足守駅が設けられたのは、明治37年でした。



旧生石村の方言抜粋(全編は高松公民館図書室所蔵)
いけぇーこと 沢山 えっぽど 余程 ぎょうさん 沢山
けなりがる うらやましがる きょーてぇー 恐い すまー しない
そねーに そんなに ちばける ふざける へんてこ へんくつ
おせ 大人 すばる 座る ほやす 泣かす
てんごろやすー たやすく  でぇーろー 沢山 ぬきぃー 暖かい
ひょーたくる からかう よーま 無駄口