東方岡 東片岡は西片岡の東にあり、鎌倉前期に領主であった片岡八郎経春にちなんで片岡村と名付けられていたが、後に東西に分かれて東片岡村になったといわれている。丘陵地が多く畑作物の栽培とか酪農がさかんな所です。朝日八幡宮があり、また朝日山城趾もあることから昔から朝日地区の中心部であったようである。
朝日八幡宮(あさひはちまんぐう)
 東片岡の宮の尾地区の妹岡山にある神社(もと村社)で、祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后の三柱である。片岡八郎経春の子経明が1186年8月(また他の説では1199年8月)片岡氏の氏神として、山城の国男山八幡宮(石清水八幡宮)を勧請して祀ったのがはじまりという説と、1827年に書かれた「東片岡村八幡宮通夜物語」によれば、源義経の家臣、片岡経春は源平合戦の忠勤により当国を賜って、大附城(大着城)に居城した。当時この地を入賀村と言っていたが、その守護神として八幡宮を勧請という説が残っている。延慶年間「1308〜1311年」に入賀村は片岡村と改名される。祭日は10月12日であるが近年はそれに近い日曜日に行う。御輿は地区当番でかついでいる。1687年、1738年、1791年の三枚の棟札が残っている。 片岡八幡宮  
太田杏三(号:杏荘)先生(記事をクリックすると拡大します)  
朝日山城址(あさひやまじょうし)
 この城は高野谷にあり、すり鉢を伏せたようなまるみのある丘で、標高72mあり、今では麓には民家が連なり次いで上へ段々畑が連なっている。
 その山頂に城があったと伝えられている。山頂から遙かに西方を見渡すと海の中の島であった昔時よく見通しが効き今でも東片岡、西片岡はもちろん水門湾など広い範囲が一望できこの地域を治めるお城にふさわしい位置ではないかと思われる。
 城主は不明(改訂邑久郡史)だが一説には片岡常右衛門義春(大附城主片岡八郎経春より六代前の祖と言われている。)が戦いに参加し功労をあげたことによってこの地方を知行として与えられここに城を構えたと伝えられている。
 この名称が後の朝日村の元になったと伝えられている。
朝日山城跡
朝日山城跡

山頂から西方を望む
朝日山城跡山頂より西方を望む

お大師堂と陽石(おだいしどうとようせき)
高野谷にあるお大師堂の前には見事な陽石(男性のシンボルの形をした石)がある。高さ1mほどの自然石で(首部に人工の跡あり)陰石(女陰形の石:ここでは手洗鉢)とペアを組んでいる。
お大師堂の建替えー柳田のお大師堂ー
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十一面観音

新しいお大師木像

高貴な人の石碑

新お大師堂

旧お大師堂瓦
大変古い書付け等も発見されました。
文化十一年
(1815年)
柳田のお大師堂は邑久郡八十八ヶ所霊場の八十四番札所ですが、御本尊
の「十一面観音」はもっと古くから信仰
されていたようです。